国土交通省四国運輸局が開発した「津波救命艇」の試作艇が12日、高知県内で初めて公開された。
時速36キロの津波に流され、建物に衝突しても安全だという現代版「ノアの方舟(はこぶね)」は、高さ34~13メートルの津波が想定される南海トラフ巨大地震で福音となるのか。高知運輸支局(高知市桟橋通)で開かれた見学会で確かめてみた。
オレンジ色の流線形の船体は全長8・4メートル、幅と高さ3メートル、重さ3・5トン。繊維強化プラスチック(FRP)製の本体をぐるりと巻くように、発泡樹脂製の緩衝材(厚さ1・3~0・35メートル)が取り付けられている。この白い“帯”が内部の安全性を確保する。
出入り口は後部にあり、内部には25席が馬てい形に並ぶ。クッションは厚みがあり、座り心地はそこそこ良い。4点式のシートベルトでがっちりと固定され、頭部にはヘッドレストもある。転覆してもこれなら大丈夫だろう。
FRPでも鉄骨が突き破ることがあるのではという疑問を、開発に携わったIHIの担当者は否定した。自衛隊の防弾盾に使用されているポリカーボネートを、座席の背面と船体の間に張り巡らすことで、さらに強度を増しているという。
同運輸局は、高台への避難が難しい高齢者や子どもの救助を想定している。この日、みさと幼稚園(高知市仁井田)の園児22人が招待され、船内を見学した。
四つの天窓を含めて窓は八つ。壁面には電池式のLED照明もあり、密閉されていても明るい。安田絢音ちゃん(6)は「中にライトもたくさんついてるし、夜も大丈夫」と笑った。
エンジンがないため自力航行できず、津波とともに流れると、助けが来るまで船内で過ごすほかない。座席下や床下に1週間分の水や食料などを備えることができ、トイレもある。
「津波ですごく揺れても、頑張って我慢する」と木下愛梨ちゃん(6)。引率した高芝妃実乃教諭(29)は「どんな船かみんな理解してくれた。意外と居心地もよさそうだった」と胸をなで下ろした。
「避難ツールの一つとして、多くの人に知ってもらいたい」という同運輸局の丸山研一局長も、「運用法や価格など多くの課題が残っている」と認める。
船体上部に出られるはしごはあっても、長期間の閉塞生活は避けられない。幼い子どもがどこまで耐えられるか未知数だ。さらに、700万円という目標価格もネックとなる。運用面のマニュアルや、普及に向けた支援などが急がれる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130313-00010002-yomidr-hlth
2月下旬、新潟市中央区関屋大川前の精神障害者らが通う就労支援施設「新潟しなの福祉会 あどばんす」で火災訓練があった。新潟市消防局の消防士から避難方法について説明を受けていた時、30代の男性利用者が「津波の時の避難ではどう対策をとればいいですか」と心配そうに尋ねた。消防士は「施設ごとに状況が違う。良い避難方法を模索し、何度も訓練して検討しましょう」と答えた。
同施設はコンクリート2階建てで、信濃川沿いに建つ。これまで、火災の避難訓練は年2回実施してきたが、津波の訓練はやったことがない。宇治彩子施設長は「最善の策が分からず、対策に動けなかった。利用者全員での避難は時間がかかる。どの場所に、どのように避難するのが一番良いのか」と戸惑う。
宇治施設長によると、地震などの際は最寄りの小学校を避難場所としているが、徒歩で約15分かかる。津波の際には、隣接する5階建ての福祉施設や市営住宅に逃げることも考えているが、具体的な検討はこれからだ。また、40人の利用者は徒歩で逃げることはできるが、何かあれば心が不安定になりやすく、焦らないように誘導するなどケアが必要だ。
◇ ◇ ◇
東日本大震災後、県内でも津波対策の見直しが進められている。県は今年5月をめどに、県内の津波浸水想定図を完成させる予定だ。複数の地震が連動する新たな想定では、津波が大規模に河川を遡上(そじょう)し、川に囲まれた新潟市内では浸水域が拡大するとされる。4月には、県と新潟市で、障害者施設の運営などに関する改正条例が施行される予定だ。改正後は、施設に対して災害別に避難対策を講じるよう求めており、初めて津波も想定に盛り込まれる。
在宅の障害者や高齢者については、市町村が名簿を作成し、自治会が把握して緊急時に備える準備が進められている。一方、施設については利用者や立地など施設ごとに状況が異なることから、県と市は施設ごとに対策を検討するよう求めている。しかし、市内の沿岸部にある障害者施設は「周囲に高い建物はなく、避難といっても施設の2階しかない。車いすの人を2階に運ぶにも人手がいる」と不安を口にする。また、高齢者のデイサービスセンターでは「避難方法は手探り。寝たきりの高齢者もいるので避難させるにも人手がいる」と訴える。
県は施設に対して、施設自らが避難対策を講じる「自助」と、地域で助け合う「共助」の双方が不可欠とし、「地域との連携が必要であれば、各施設で対応を議論してほしい」としている。一方、市は震災で要援護者を助けようとした人が津波に巻き込まれた教訓から「『共助』についての議論は慎重にすべきだ」との立場をとる。これに対し、宇治さんは「十分な避難対策を取るには、やはり地域の理解も必要」と訴え、施設だけでなく行政、地域と連携した対策を求めている。
大震災では、三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」が注目された。「てんでばらばらに」を意味し、自分の身は自分で守る教訓だ。施設に入所する自力で逃げられない人たちへの対策をどうするのか。県と市は、今後、各施設の津波避難マニュアルを点検することも考えているが、本格的な議論にはまだ至っていない。
3月14日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130314-00000015-mailo-l15
越後平野を蛇行しながら流れる中ノ口川はかつて、幾度となく破堤し、水害を起こしてきた。明治時代の河川改修で破堤はしなくなったが、戦後になると、周辺での水溶性ガスの採取による地盤沈下で再び治水が不安定になった。1958年から、堤防のかさ上げや河川改修工事が始まったが、川沿いに民家が密集しており用地取得に時間がかかることなどもあり、50年以上たった現在も完了のめどはついていない。東日本大震災では、津波など防災対策の重要さを改めて問題提起したが、たびたび豪雨被害が起きている県内でも、対策は万全ではない現状がある。
「地域は待ちきれない思いで待っている」。中ノ口川の川沿いにある同市西区板井で、板井総自治会の総代を務めている小林博さん(72)は話す。
大震災から約4カ月後の11年7月に起きた「新潟・福島豪雨(7・29水害)」では、中ノ口川の水位が危険水域まで上がり、通常は排水路の水を川に流しているポンプが止められた。排水路から水があふれ、田んぼや黒埼茶豆の畑が泥水をかぶった。「立派な排水機場があるのに、困っているときに使えないなんて」。川から水があふれれば、被害はよりひどくなると分かっていても、理不尽という思いは消えない。
現在、板井地区も含む約5・2キロで堤防の暫定かさ上げ工事が下流から進められている。完成には5年ほどかかる予定だったが、1~2年ほど前倒しできる見通しが出てきた。「防災・減災」を掲げて公共事業を大幅に増加させた自公政権の大型補正予算の影響で、県の2月補正予算で15億円がついたためだ。県河川整備課は「公共事業費は右肩下がり。『選択と集中』でやらざるをえず、大型補正で予算がついたとはいえ、遅れを取り戻しているに過ぎない」と話す。
工事の進展に喜ぶ一方で、小林さんには一つの懸念がある。地区では洪水の防災訓練を長らく実施していない。大震災や7・29水害の後も、地域住民の防災意識が高まったとは感じないという。今年6月、7年ぶりに訓練を行う。「かつて何度も破堤した川とはいえ、直接経験した人はいない。『もし破堤したら』ということを常に頭に入れて準備しないと……」と表情を険しくする。
◇ ◇ ◇
大震災後の防災対策について、水害対策を研究している新潟大の災害・復興科学研究所の安田浩保准教授(河川工学)は「早期避難や防災教育などのソフト面の組み合わせが不可欠と認識されるようになった」と話す。
国は大震災を受け、地震・津波対策について、堤防などハード面の整備である程度対応できる「レベル1」(数十年~百数十年に1度程度)と、ハード面だけでは対応困難で早期避難などソフト面の対応が主となる「レベル2」(数百年~1000年に1度程度)に分けて、防災対策を検討することを決めている。
安田准教授は「災害に上限はない、つまり防げない災害がありえることを国が初めて認めた」と解説する。そして「堤防などができても、『これで大丈夫』と思わないこと。一人一人が防災への知識、知恵を身につける必要がある」と指摘する。
3月13日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130313-00000023-mailo-l15
福島県いわき市から長岡市に避難しました。避難してから3カ月間は避難所で過ごしましたが、そこでも友達ができました。
いわきと違い、長岡は雪が降るので、冬は外で遊べません。お母さんに「何か習い事をしたら」と言われたので、アニメで見て憧れていたベースを習い始めました。週1回、音楽教室に通っています。弦が4本しかないので簡単そうに思いましたが、意外と難しいです。それでも1年以上続けてきて、何曲も弾けるようになりました。
東日本大震災前は、自分の大切なものと言えば、おもちゃなどを想像していました。でも長岡に避難し、お父さんとも離れて暮らしてみて、やっぱり一番大事なのは家族なんだと思うようになりました。ちょっとだけ自分が大人になったかなと思います。
将来はいわきに戻り、ロックバンドを組んで演奏してみたいです。それとは別に、お母さんとも一緒に演奏したいなと思っています。
http://mainichi.jp/area/niigata/news/20130311ddlk15040025000c.html
東日本大震災による津波で多くの家が流された福島県いわき市小浜町の海岸で11日、復興を願う「復興祭」が開かれた。同市内のアパートなどに身を寄せるなど、散り散りになった住民が集まり、再会を喜んだ。
復興祭を開いたのは、中越地震(04年)を機に設立された小千谷市のNPO法人「おぢや元気プロジェクト」だ。中越地震で自らも被災した若林和枝理事長(53)らは直後から、50回以上福島に通い、支援してきた。復興祭で、若林さんは「元気だった?」などと笑顔で被災者らに語りかけた。同祭では参加者たちが、黄色の旗に復興へ寄せるメッセージなどを書いて会場の柱にくくりつけ、童謡「ふるさと」などを合唱した。最後は、集まった約70人が手をつなぎ、青空に向かって両手を掲げて「ありがとう」を三唱した。同祭の後で若林さんは「(被災者が)前を向いていこうとしているのは感じた。でも自分の家に住み、近所の人と毎日当たり前にあいさつできるようになってやっと、安定した気持ちになると思う。そうなるまで寄り添い続けたい」と話した。
福島に通いながら、若林さんには気にかかっていることがある。ボランティアが減っていることだ。全国社会福祉協議会(東京都)によると、各市町村の災害ボランティアセンターを通じた福島県へのボランティアは、11年5月の約3万4400人から、今年2月で約700人に減った。
震災から2年たっても、若林さんは、心理的な支援を必要とする人はまだまだ多く「仮設住宅入居の長期化などで孤独やストレスを抱えている」と感じている。傾聴ボランティアなど地域に密着した支援が必要だが、小規模の県外団体では難しいのが悩みだ。
それでも同プロジェクトはいわき市と南相馬市の仮設住宅周辺など計7カ所に「心の駅」として、ベンチや机を置いた野外交流スペースを設けた。屋根も設け誰でも自由に利用できる。「住民同士だと気を使って言わないことも、外の人には言いやすい場合もある」と話す。
中越地震から8年、若林さんは今も、そのときの支援者と続く交流が支えになっている。福島への支援はその恩返しの気持ちだ。ボランティアが減っている今だからこそ、支援をしている自分たちの努力が問われていると考えている。
人の記憶が風化していく中、若林さんは「3月11日を日本中が、世界中が思い出し、忘れないようにする。それが前に進んでいくことになる」と話す。
主に宮城県山元町にボランティアの参加者を乗せるバスを企画しているボランティアグループ「新潟恩返し隊」の棚村克巳代表(47)は「4月以降、ボランティアバスの仕組みをどうしようか考えている」と漏らす。
バスの運営は、ボランティア対象の高速道路無料措置に助けられてきた。だが東日本高速道路によると、4月以降も続くかは未定だ。負担増の可能性に加え、「バスが果たしてきた役目は終わってきているように感じている」と明かす。
震災直後から延べ約2100人を運んできたが、昨秋以降、参加者はピーク時の半分程度まで減った。被災地の状況も変わり、かつてのように力仕事を必要とする支援は減っている。
ただ「『ボランティア』という枠にとらわれる必要はない」と棚村さんは言う。観光旅行や地元の人たちとの交流など、被災地支援のためにできることはたくさんあると考えているからだ。
3月12日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130312-00000112-mailo-l15&p=1
おととしの「新潟・福島豪雨」で被害を受けた三条市は、道路が冠水して、市が指定していた避難所にたどり着けない地域があったためホテルなど民間に協力を求めて、避難所の設置場所を見直しました。これは、12日に開かれた定例会見で三条市の国定市長が発表しました。
三条市では、おととしの「新潟・福島豪雨」で道路が冠水したり、自宅から遠かったりして市が指定していた避難所にたどり着けないケースが相次いだということです。このため、三条市は、ホテルなど民間に協力を求めて、これまで指定していた避難所を見直し、民間の5つを含むあわせて68の施設を新たに避難所に指定しました。避難所の指定にあたっては、これまで、2階以上の高さがある鉄筋の公共施設を選んできましたが、今回は、これにこだわらず、地域ごとの浸水の程度や土砂災害の危険性を見極めて選んだということです。
このほか、民間の避難所については、一時的に避難する「緊急避難場所」と位置づけて、地元の自治会が選ぶことができるようにするということです。
国定市長は、「自治会が、自ら避難所を選ぶことで、自分の命は自分で守るという防災意識の向上にもつながると思う」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/niigata/lnews/1033053381.html?t=1363111487656
東日本大震災が11年3月11日に発生して以降、被災地対策や原発問題、東京電力・東北電力管内の停電問題など、混乱が続いた。その原因は日本政府がクライシス・コミュニケーションに失敗したからだ。
政府が犯したクライシス・コミュニケーションの失敗とは、一言でまとめれば「各論の情報」しか出てこない点にある。クライシス・コミュニケーションにおける情報発信は体系的でなければならないが、それが全くなされていなかったのだ。
体系的な情報発信とは、まず水平方向に情報が網羅されている必要がある。東日本大震災で国民はどのような情報を求めているか検討してみよう。裏を返せば国がどんな情報を発信しなければならないか、それは10項目に大別できる。
一番大切なのは、「被災者の救出」に関する情報である。行方不明者の捜索や負傷者の救護、避難所の支援がどうなっているのか。それらの現状と今後の見通しが真っ先に出てこなければいけない。
次に「ライフライン」(水道、電気、ガス)、そして「インフラ」(鉄道、港湾、道路、空港、通信)の現状と復旧の見通しが必要である。一般車両の通行が制限されていた東北自動車道が全面再開したとのニュースが突然発表されたとき、多くの人が驚きや唐突さを感じた。もっと時間がかかると思っていたところに、いきなり開通の情報がもたらされたからだ。
インフラの復旧見通しに関する情報がなかったので、企業も個人も現地に行けるかどうかわからなかった。ライフラインの見通しもわからなかったので、現地へ行っても生活できるかどうか見通しが立たず、身動きが取れなかった。もし事前に復旧予定情報が伝えられていれば、人々は行動の見通しを立てられただろう。
「飲食物対策」も欠かせない。食べ物や飲み物が来るのか、来ないのか。来るとすればいつ頃なのか。これは被災者にとっても、現地へ応援に行く人にとっても非常に重要である。
そのほかにも医療施設や薬品、医師・看護師の派遣という「医療対策」や、放射能の拡散防止などの「原発事故対策」、金融支援や復興事業、雇用創出といった「経済対策」、燃料供給に関する「燃料対策」の情報が必要である。
避難所生活は不便極まりなく、ライフラインが機能していない場所もあるので「家屋・生活雑貨対策」も大切だ。仮設住宅に入居できる時期や、一時的な疎開や転居に関する情報の必要性は高い。災害が起きると火事場泥棒的な犯罪が増加するので「防犯・治安対策」に関する情報も必要である。
これら10項目の現状と今後の見通しについて政府は情報を発信しなければならない。そうしなければ人々はブラインド状態に陥って判断できず、身動きが取れなくなってしまう。ところが枝野幸男元官房長官はこまめに記者会見を開いていたものの、内容の大半は原発対策で、必要な情報が水平方向に網羅されていなかった。
http://news.goo.ne.jp/article/president/bizskills/president_8810.html
無料通話・グループチャットサービス「Skype」は東日本大震災から2年が経つことから、公式ブログで当時を振り返るとともに災害時の同サービスの活用方法をコメント欄で募集している。
Skypeは自然災害時に連絡手段として多様な用途で生かされてきた実績がある。東日本大震災の際は、外国人客受け入れ支援のコンサルティング会社が被災した外国人旅行客向けにSkypeを介した無償通訳サービスを提供した事例がある。また2010年に起きたハイチ地震や、2012年に米国を襲ったハリケーン・サンディの際にはテレビ報道にも使われ、現地とスタジオを中継した。
Skypeでは一般からも災害時の活用事例を募集しており、今回は2012年に続き2度目となる。前年寄せられた事例として公式ブログが紹介している内容は「友人が地震で足にけがを負い、一人で歩いて自宅まで帰ろうとしているのをTwitterの書き込みで知った。助けに行こうにも携帯が全くつながらなかったが、Skypeはつながるという書き込みを見て試したところ無事つながり、友人と落ち合うことに成功した」などがあった。
全体に携帯電話、固定電話の回線が混雑していた際、インターネット回線を利用したSkypeから連絡を取ることが可能だったという話が多い。携帯電話が使えず、とっさに手元のiPod touchから無線LANを通じて「Skypeアウト」で実家の固定電話にかけたところつながった、という事例もある。
Skypeでは2013年もこうした活用事例を募集するとともに、既存利用者に災害への備えを再確認するよう呼びかけている。例えばSkypeの連絡先一覧には災害発生時に通話したい相手が全員そろっているかどうかなどだ。身近な相手がまだSkypeを使っていない、あるいは連絡先を共有していない場合は声を掛け合うよう促している。
http://news.goo.ne.jp/article/niftybusiness/life/medical/niftybusiness-bm-41768.html
東日本大震災から2年が経った。震災直後は、防災意識が高まり、関連グッズを買い揃える動きが目立ったが、最近は防災意識がやや薄れつつあるようだ。
日経ウーマンオンラインが2012年11月26日から12月10日に読者を対象に行った防災アンケートでは、自宅で防災用に用意しているもの」として最も多くの人が挙げたのは「懐中電灯(ライト)」。でも、その懐中電灯でさえ用意している人の割合は72.6%にとどまり、2位の「水」は48.0%、3位の「ラジオ」は46.4%と半数以下であることが分かった。
アンケートの声を見ると、普段の生活の中での緊急性を実感しにくいため「後でいいや」と考えてしまう人や、「どの程度まで用意すればいいのかわからない」という人が目立ったが、実際、防災用品としてどんなものを用意するといいのだろうか。
実はこのアンケートの回答者(183人)の中には、自分が被災した経験がある人が23.5%、自分以外の家族が被災した経験がある人が15.6%、親戚が被災した経験がある人が20.1%いた。そうした人たちのリアルな経験談から、防災のために用意しておきたいものを探ってみると…。
水、および水をラクに運搬するための道具
やはり、多いのは「水」に関する苦労談だ。
■水や衛生用品の用意は一番大切「宮城県在住です。東日本大震災のときは、ライフラインがすべて止まり、苦労しました。この地震のときに気づいたのは、トイレに苦労するということです。地震の直後は恐怖や不安でおなかは空かないので、食事の心配はそこまでしなくてもよいと思います。しかし、そのような状況の中でもトイレには行きたくなりました。『今は水もないし、トイレには行けないんだ」と思えば思うほど行きたくなるものでした。そのため、水や衛生用品を用意しておくことが一番大切だなと感じました」(25~29歳)
■1週間以上も水が出ず…
「3.11を経験。1週間以上水が出ず電気も4日後から。お風呂はもちろん1週間以上入れず、飲み水は配給所に並んでペットボトル1本分もらい、トイレの水は小学校のプールの水をバケツで汲んで歩いて運んだ。また車のガソリンもスタンドに何時間も並んだ挙句、10~20リットルしか入れられなかった」(40歳以上)
■給水用のポリタンクがものすごい高値に
「1995年1月の阪神大震災を神戸市で経験しました。給水車から水を運ぶのは大変でした(給水用のポリタンクがすごい高値で売られていました)」(40歳以上)
■毎日水をもらいに行く重労働が辛くて
「従姉妹と伯母が仙台におり、東日本大震災で被災。水とガスの復旧が遅れたため、毎日水をもらいに行く重労働と、煮炊き・風呂に不自由したそうです」(30~34歳)
飲料用に手元にペットボトルを何本か確保するのはもちろんのこと、給水用のポリタンクと、それを運ぶキャスター付きの小型荷台など、給水所から水をラクに運搬するための準備も整えておいたほうがよさそうだ。
水が出なければ、風呂に入ることもままならない。実際…
体拭きシート、化粧水、乳液など衛生用品
水が出ないため、風呂に入れず辛い思いをしたという声も目立った。
■お風呂に入れないのが辛かった
「会社から帰れなくなりました。また、自宅へ帰宅できたときガスや電気、水が通っておらずお風呂にはいれなかったのがとても辛かった」(25~29歳)
■化粧水・乳液がいつ切れるかびくびく
「東日本大震災で被災。ライフラインが破壊されたので、数日、水、電気、ガス等なく寒かったし空腹だった。停電で冷蔵庫の食品が腐って駄目になった。お風呂にも入れなかったが、風呂に入れたとしても化粧水・乳液やシャンプーなど日常品がいつ切れるかびくびくした。仕事で買い物にも行けず、行ったとしても店が開いていない。開いていても、ほしいものはみんな一緒のために売り切れている。ライフラインや物流が復帰するまで生活をどうするかが苦労した」(30~34歳)
風呂に入れなくても、体を拭く、髪を洗う、お肌の手入れをするなど、最低限のことはしたいもの。除菌シートや水のいらないシャンプーを用意するとともに、化粧水やシャンプーについては必ず予備を置いておく習慣を持つとよさそうだ。
携帯電話、および携帯電話の充電器
携帯電話の電池が切れそうになりヒヤヒヤした、両親や親戚が携帯電話を持っていないため安否確認に時間がかかった、といった携帯電話に関する苦労話も多く寄せられた。
■携帯の充電池が減っていく絶望感といったら
「東日本大震災にて被災。電気が来ない間、携帯の充電池が減っていくあの絶望感は忘れられません。それにもかかわらず、「大丈夫?」メールが方々から送信され続け、怒りを覚えました。ありがたいことではありますが、不要不急の連絡は本当にやめてほしいです」(30~34歳)
■携帯電話の電池が瀕死状態に
「東日本大震災のとき、夫も私も仕事中で離れた場所にいたので、連絡を取り合い合流することが大変だった。携帯電話の電池が瀕死で心細かった」(30~34歳)
■携帯を持っていない親戚を見つけるのに1週間
「新潟の震災の際に、親戚で一人暮らしのおばあちゃんが、避難所にいたが、避難所は多いし、本人が携帯電話を持っておらず連絡も取れないため、見つかるまでに1週間かかった」(60歳以上)
やはり、携帯用の充電池は必須。充電をうっかり忘れてしまうこともあるので、自家発電タイプのものだと、さらに便利だ。また、一人暮らしの身内が携帯電話を持っていない場合は、この機会に携帯電話を持ってもらうか、近所の人に協力してもらうなど、携帯に代わる手段を確保するなどしておきたい。
さらに、次のようなことにも留意したい。
自分の住んでいるのがどんな家かや、自分にとっての必需品は何か、また、自分がどこまで求めるか、などによって変わってくるが、ほかにもこんな声が聞かれた。
■オール電化だったので、何もできない状態に…
「友人の弟が東北の地震に仙台で被災し、オール電化ハウスだったので、電気が通るまで10日近く、暖もとれず、風呂も沸かせず、煮炊きできない状態に。家が壊れていないので避難所にも入れてもらえず、避難物資も分けてもらえなかった」(40歳以上)
■温かい食べ物も食べられず
「阪神淡路大震災で被災しました。冬だったので、関西でもとても寒く感じました。暖をとる方法がなく、温かい飲食物も自衛隊が来てくれるまでの3日間は何もなかったので、本当につらかったです。また、数日後からはメディア関係者が増え、ただでさえ大変な状況だったのに、ひどい取材態度によって精神的なつらさが何倍にも増大してしまいました」(35~39歳)
■真っ暗で、メガネが見つからなかった
「友人が神戸市長田町で震災に遭いました。真っ暗な中で、眼鏡がどこにあるか分からず、困ったそうです。とりあえず、眼鏡は手の届くところに置いて寝ないと、物が散らばった中で、動くのも危険だと聞きました」(35~39歳)
■自宅だけでなく、職場にも備えが必要!?
「都内で東日本大震災の経験。3月とはいえ夜に歩いて帰るのは寒かった。自宅の避難袋だけでなく職場にも備えが必要だと痛感した」(30~34歳)
最近は防災用に少量の水があれば食品を加熱できる発熱剤と加熱袋なども売られている。温かい食べ物を確保したければ、そうしたものを用意しておくのも一策だ。また、メガネが必需品だという人は、できれば予備のメガネを非難袋に入れておきたいところだが、少なくとも、壊れないようケースに入れて手の届く場所に置いておくなどしたい。
日経ウーマンオンラインと女性防災士が企画・開発した
女性のための緊急避難・防災セット
●日経ウーマンオンラインの読者調査をもとに、女性防災士が選んだ女性の必需品を含めた35種類の防災用品を揃えた女性用防災セットの決定版
●バッグは約13リットルもの水を楽に運べる水タンクを内蔵。女性でも重い水を運べるため、断水が長期になっても安心
●食品は美味しい長期保存食、氷砂糖など非常時にも元気を出せるアイテムが充実
●日経ウーマン編集部が作成した「女性のための防災マニュアル」(4ページ)付き
■商品の詳細はこちら
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20130222/146581/
■商品のご予約・ご購入はこちら
http://www.nikkeibp.co.jp/article/ecp/20130219/340760/
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130311-00000001-woman-life
加茂市五番町の地域交流センターでは昨年2月から毎週水曜、東日本大震災による福島県からの避難者同士の「交流サロン」が開かれている。福島県郡山市から家族6人で加茂市へ避難した七海斗菜(ほしな)さん(32)も交流サロンに通う一人だ。
七海さんは震災から約半年後、両親と長女(5)、長男(3)、次女(2)の子ども3人と一緒に避難した。お菓子をつまみながら、同じく子ども連れで避難している同世代の母親と子育ての話などに花を咲かせている。「同じ避難の経験があるので、思いを打ち明けられる部分はある」と話す。
避難をして半年たったころ、七海さんは「相談できる人がいない」と孤立感を感じるようになったという。長女が通う幼稚園で保護者同士の交流があり「ママ友」もできたが、「自分は避難者」という思いが引け目になり、本音や悩みごとを打ち明けることはなかなかできなかった。
幼い子どもを連れての避難生活は想像以上に大変だった。夫は仕事で郡山市に残り、友人も親戚もいない新潟で不安が募った。そんな中、加茂市の交流サロンの存在を知った。「他の避難者の状況が分かり、情報も入ってきて気持ちを落ち着かせることができた」と振り返る。
県内では8日現在、5798人の避難者が暮らす。県広域支援対策課によると、避難者の交流拠点は現在13市町村に21施設ある。いずれも情報提供や避難者の孤立化防止が大きな目的だ。また各自治体で約50人の見守り相談員が避難者の各家庭を回って不安を聞いたり、支援が必要な場合は関係機関を紹介したりしている。同課は「声を上げることができず、孤立を深めている人もいるだろう。いかに困っている避難者を見つけ、声をかけていくかが今後も大事になる」と話す。
◇ ◇ ◇
避難生活の長期化は、家計も圧迫している。自身も避難者で、新潟市の避難者交流施設「ふりっぷはうす」の男性スタッフ(37)は「経済的な厳しさから、避難をいつまで続けられるか不安に思う声をよく聞く」と話す。
福島市から新潟市に子ども3人と避難し、同施設を利用している角田郁子さん(40)は「高速道路代が一番の負担」と漏らす。昨年4月、高速道路の無料措置の対象から自主避難者が外れた。福島に残る夫は、以前は毎週末に子どもに会いに来ていたが、往復の高速道路代に約7000円かかる。夫が来るペースは月2回に減り、角田さんは「子どもたちも寂しい思いをしている」と話す。
また、借り上げ仮設住宅の補助がいつまで続くかも不安だ。来年3月末までの単年延長は決まったが、その先は分からない。
こうした声を受け、県は今年1月から月1回の往復分のみ高速道路代を補助している。また昨年4月から新潟市と郡山市間の高速バス代の補助も始めた。4月以降も継続する予定だが、県の担当者は「本来であれば、国が責任もって対応すべき問題」と話し、継続的な支援の必要性を強調した。
3月11日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130311-00000091-mailo-l15
団体理念 │ 活動展開 │ 団体構成 │ 定款 │ プライバシーの考え方 │ セキュリティについて │ 事業 │ メディア掲載 │ 関連サイト │ お問い合わせ
copyright © JMJP HOT TOWN Infomaition Inc. All Rights Reserved.   NPO法人 住民安全ネットワークジャパン
〒940-0082 新潟県長岡市千歳1-3-85 長岡防災シビックコア内 ながおか市民防災センター2F TEL:0258-39-1656 FAX:020-4662-2013 Email:info@jmjp.jp