東日本大震災による津波で多くの家が流された福島県いわき市小浜町の海岸で11日、復興を願う「復興祭」が開かれた。同市内のアパートなどに身を寄せるなど、散り散りになった住民が集まり、再会を喜んだ。
復興祭を開いたのは、中越地震(04年)を機に設立された小千谷市のNPO法人「おぢや元気プロジェクト」だ。中越地震で自らも被災した若林和枝理事長(53)らは直後から、50回以上福島に通い、支援してきた。復興祭で、若林さんは「元気だった?」などと笑顔で被災者らに語りかけた。同祭では参加者たちが、黄色の旗に復興へ寄せるメッセージなどを書いて会場の柱にくくりつけ、童謡「ふるさと」などを合唱した。最後は、集まった約70人が手をつなぎ、青空に向かって両手を掲げて「ありがとう」を三唱した。同祭の後で若林さんは「(被災者が)前を向いていこうとしているのは感じた。でも自分の家に住み、近所の人と毎日当たり前にあいさつできるようになってやっと、安定した気持ちになると思う。そうなるまで寄り添い続けたい」と話した。
福島に通いながら、若林さんには気にかかっていることがある。ボランティアが減っていることだ。全国社会福祉協議会(東京都)によると、各市町村の災害ボランティアセンターを通じた福島県へのボランティアは、11年5月の約3万4400人から、今年2月で約700人に減った。
震災から2年たっても、若林さんは、心理的な支援を必要とする人はまだまだ多く「仮設住宅入居の長期化などで孤独やストレスを抱えている」と感じている。傾聴ボランティアなど地域に密着した支援が必要だが、小規模の県外団体では難しいのが悩みだ。
それでも同プロジェクトはいわき市と南相馬市の仮設住宅周辺など計7カ所に「心の駅」として、ベンチや机を置いた野外交流スペースを設けた。屋根も設け誰でも自由に利用できる。「住民同士だと気を使って言わないことも、外の人には言いやすい場合もある」と話す。
中越地震から8年、若林さんは今も、そのときの支援者と続く交流が支えになっている。福島への支援はその恩返しの気持ちだ。ボランティアが減っている今だからこそ、支援をしている自分たちの努力が問われていると考えている。
人の記憶が風化していく中、若林さんは「3月11日を日本中が、世界中が思い出し、忘れないようにする。それが前に進んでいくことになる」と話す。
主に宮城県山元町にボランティアの参加者を乗せるバスを企画しているボランティアグループ「新潟恩返し隊」の棚村克巳代表(47)は「4月以降、ボランティアバスの仕組みをどうしようか考えている」と漏らす。
バスの運営は、ボランティア対象の高速道路無料措置に助けられてきた。だが東日本高速道路によると、4月以降も続くかは未定だ。負担増の可能性に加え、「バスが果たしてきた役目は終わってきているように感じている」と明かす。
震災直後から延べ約2100人を運んできたが、昨秋以降、参加者はピーク時の半分程度まで減った。被災地の状況も変わり、かつてのように力仕事を必要とする支援は減っている。
ただ「『ボランティア』という枠にとらわれる必要はない」と棚村さんは言う。観光旅行や地元の人たちとの交流など、被災地支援のためにできることはたくさんあると考えているからだ。
3月12日朝刊
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