【一(いっ) 燈(とう) 照(しょう) 隅(ぐう)、 万(まん) 燈(とう) 照(しょう) 国(こく)】
(訳…一人の明かりが一隅を照らし続ける。それが一人増え、二人増えて万(まん)燈(とう)になって、国全体を明るく照らす)
~ 魏(ぎ)の国の王は、「我が国の国宝は、径(けい)寸(すん)の金貨十枚である」と言う。
それに対して斉(せい)王(おう)は、「私の国には、そんな宝はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅(いちぐう)を照らせば、千里を照らす。これこそ我が国の宝だ」と。
安岡(やすおか)正篤(まさひろ)氏はこの話に深く感銘し、【一(いっ)燈(とう)照(しょう)隅(ぐう)】を己の行として、この一事を呼び掛け続けたそうです。
一人ひとりの灯は小さいけれど、それを燃やし続ければ、一人増え、二人増え、やがては万(まん)燈(とう)になり、国中を照らすようになる。一つのことを何十年も続けていけば、必ずものになるものだと言っています。
天台宗の開祖・最澄(さいちょう)も『一隅を照らす、これ即ち国宝なり(世の一隅を明るくする人こそ、国の宝である)』と言っています。~
2010年10月12日
伝習会〈第十七回〉
2010年08月23日
伝習会〈第十六回〉
【幾度(いくたび)か辛酸(しんさん)を経(へ)て 志(こころざし)始(はじ)めて堅(かた)し
(訳…人の志というものは、何度も何度も艱難(かんなん)辛苦(しんく)を経験して、始めて強固になるものだ)
丈夫(じょうふ)は玉砕(ぎょくさい)するも 甎(せん)全(ぜん)を愧(は)ず
(訳…丈夫(じょうふ)(真の男子)たる者は、例え、玉砕しようとも、目的を遂げるまで志は失わない。私は、志を曲げてまで、ひび割れた瓦のように、ただいたずらに、のうのうと生きながらえる事を恥じる)
我(わ)が家(や)の遺法(いほう) 人(ひと)知(し)るや否(いな)や
(訳…我が家に代々伝わっている家訓がある。ただそれを人が知っているかどうかは知らない)
児孫(じそん)の為(ため)に 美田(びでん)を買(か)わず】……西郷(さいごう)南洲(なんしゅう)「偶感(ぐうかん)」
(訳…(その家訓とは)自分の子供や孫の為に田畑を買い求めたり、財産を残したりはしない)
〔注…【偶感(ぐうかん)】を偶成(ぐうせい)、【愧(は)ず】を恥(は)ず、【我が家(わや)の遺法(いほう)】を一家(いっか)の遺事(いじ)ともいう〕
~ 親は子供を可愛がるあまり、ついつい甘やかしがちになりますが、人の道を外れることのない、強く、優しく、思いやりのある人間となってもらう為にも、親として西郷家の家訓を心して行きたいものです。
西郷隆盛が大変好んで揮毫した【敬天(けいてん)愛人(あいじん)】(天を敬い、人を愛す)は、よく知られています。
(訳…天、大なるものの前では、人間は謙虚であらねばならない。また、自分を愛するほどに人を愛せよ)
☆ …“艱難(かんなん)辛苦(しんく)汝(なんじ)を玉(ぎょく)にす”
☆ …涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない~
(訳…人の志というものは、何度も何度も艱難(かんなん)辛苦(しんく)を経験して、始めて強固になるものだ)
丈夫(じょうふ)は玉砕(ぎょくさい)するも 甎(せん)全(ぜん)を愧(は)ず
(訳…丈夫(じょうふ)(真の男子)たる者は、例え、玉砕しようとも、目的を遂げるまで志は失わない。私は、志を曲げてまで、ひび割れた瓦のように、ただいたずらに、のうのうと生きながらえる事を恥じる)
我(わ)が家(や)の遺法(いほう) 人(ひと)知(し)るや否(いな)や
(訳…我が家に代々伝わっている家訓がある。ただそれを人が知っているかどうかは知らない)
児孫(じそん)の為(ため)に 美田(びでん)を買(か)わず】……西郷(さいごう)南洲(なんしゅう)「偶感(ぐうかん)」
(訳…(その家訓とは)自分の子供や孫の為に田畑を買い求めたり、財産を残したりはしない)
〔注…【偶感(ぐうかん)】を偶成(ぐうせい)、【愧(は)ず】を恥(は)ず、【我が家(わや)の遺法(いほう)】を一家(いっか)の遺事(いじ)ともいう〕
~ 親は子供を可愛がるあまり、ついつい甘やかしがちになりますが、人の道を外れることのない、強く、優しく、思いやりのある人間となってもらう為にも、親として西郷家の家訓を心して行きたいものです。
西郷隆盛が大変好んで揮毫した【敬天(けいてん)愛人(あいじん)】(天を敬い、人を愛す)は、よく知られています。
(訳…天、大なるものの前では、人間は謙虚であらねばならない。また、自分を愛するほどに人を愛せよ)
☆ …“艱難(かんなん)辛苦(しんく)汝(なんじ)を玉(ぎょく)にす”
☆ …涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない~
2010年07月19日
伝習会〈第十五回〉
【温(おん) 故(こ) 知(ち) 新(しん)】…論語(為政(いせい)第三)
(訳…過去の歴史、故事成語などをよく勉強し理解して、自らの基礎・土台をしっかり確立する。そこから新しい知識や道理を得ること)
~ 論語に…
『故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る、以(も)って師(し)と為(な)るべし』が元文です。
これが【温故知新(おんこちしん)】という四字熟語のもとになった言葉です。
昔のことを研究し、知識を得て、今の時代に生かす新しい思考や方法を身につける。そうして始めて『以(も)って師(し)となるべし』、所謂(いわゆる)、そういう人が教師になれる、資格が得られる。と言っています。
松尾芭蕉の言葉に【不易(ふえき)流行(りゅうこう)】という成語があります。
【不易(ふえき)】とは変えてはならないもの、【流行(りゅうこう)】とは変えなければならないもの、を意味します。芭蕉が言うには俳句は、五、七、五の十七文字や季語など絶対に変えてはならないものと、いろいろな時と場所などの情景により、常に変えていかなければならないもの、の両方から成り立っていると言っています。
だからこそ、俳句は庶民に長く愛されて来たのではないでしょうか。
この故事成語は、企業経営にもあてはまり、どんなに世の中が変わっても、
「変えてはならないものは絶対に変えない」、という不変の真理と、「時代の変化と共に変えなければならないものは変える」、という柔軟性が必要だと言っているのではないでしょうか。~
(訳…過去の歴史、故事成語などをよく勉強し理解して、自らの基礎・土台をしっかり確立する。そこから新しい知識や道理を得ること)
~ 論語に…
『故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る、以(も)って師(し)と為(な)るべし』が元文です。
これが【温故知新(おんこちしん)】という四字熟語のもとになった言葉です。
昔のことを研究し、知識を得て、今の時代に生かす新しい思考や方法を身につける。そうして始めて『以(も)って師(し)となるべし』、所謂(いわゆる)、そういう人が教師になれる、資格が得られる。と言っています。
松尾芭蕉の言葉に【不易(ふえき)流行(りゅうこう)】という成語があります。
【不易(ふえき)】とは変えてはならないもの、【流行(りゅうこう)】とは変えなければならないもの、を意味します。芭蕉が言うには俳句は、五、七、五の十七文字や季語など絶対に変えてはならないものと、いろいろな時と場所などの情景により、常に変えていかなければならないもの、の両方から成り立っていると言っています。
だからこそ、俳句は庶民に長く愛されて来たのではないでしょうか。
この故事成語は、企業経営にもあてはまり、どんなに世の中が変わっても、
「変えてはならないものは絶対に変えない」、という不変の真理と、「時代の変化と共に変えなければならないものは変える」、という柔軟性が必要だと言っているのではないでしょうか。~
2010年07月04日
伝習会〈第十四回〉
【積善(せきぜん)の家(いえ)には必(かなら)ず余慶(よけい)あり】…易(えき)経(きょう)
(訳…ご先祖や親が良い行いをした家には、その家の子供や孫に必ず良いことがある)
~ この後に、【積(せき)不善(ふぜん)の家(いえ)には、必(かなら)ず余殃(よおう)あり】と続きます。
今、私達が幸せに暮らして行けるのも、ご先祖や両親のお陰なんだと、感謝しなければなりません。また、同時に、私達は自分の子供の為に、良い行いをしなければならない責任があります。
私達がそれに反して【積(せき)不善(ふぜん)】・悪い行いをすれば、 必ず子供に【余(よ)殃(おう)】・災いが及びます。 ただ、善行(よい行い)はこれ見よがしに行うものではありません。
淮南子(えなんじ)に次の言葉があります。
【陰徳(いんとく)ある者は必ず陽報(ようほう)あり】。人が見ていようが、見ていまいが、独(ひと)りを慎(つつし)み(自分一人のときの行動)、只ただ、無心で善行を積めば、必ず良い報いがある。と言っています。
だが、【陽報(ようほう)】を期待した【陰徳(いんとく)】には、その報いが無いことは当然です。
心して行きたいものです。~
(訳…ご先祖や親が良い行いをした家には、その家の子供や孫に必ず良いことがある)
~ この後に、【積(せき)不善(ふぜん)の家(いえ)には、必(かなら)ず余殃(よおう)あり】と続きます。
今、私達が幸せに暮らして行けるのも、ご先祖や両親のお陰なんだと、感謝しなければなりません。また、同時に、私達は自分の子供の為に、良い行いをしなければならない責任があります。
私達がそれに反して【積(せき)不善(ふぜん)】・悪い行いをすれば、 必ず子供に【余(よ)殃(おう)】・災いが及びます。 ただ、善行(よい行い)はこれ見よがしに行うものではありません。
淮南子(えなんじ)に次の言葉があります。
【陰徳(いんとく)ある者は必ず陽報(ようほう)あり】。人が見ていようが、見ていまいが、独(ひと)りを慎(つつし)み(自分一人のときの行動)、只ただ、無心で善行を積めば、必ず良い報いがある。と言っています。
だが、【陽報(ようほう)】を期待した【陰徳(いんとく)】には、その報いが無いことは当然です。
心して行きたいものです。~
2010年06月07日
伝習会〈第十三回〉
【 行(ゆくに) 不(ず) 由(よら) 径(こみちに) 】(ゆくにこみちによらず)…論語(ろんご)(雍也(ようや)第六(だいろく))
(訳…径(こみち)・近道をせず、遠回りと思っても大道(だいどう)を一歩一歩着実に歩めの意)
~ 【孔子(こうし)】と【子游(しゆう)】の会話の中にある言葉です。
【子游(しゆう)】が武(ぶ)城(じょう)という町の宰(さい)(首相)になった時、【孔子(こうし)】が「汝(なんじ)、人(ひと)を得(え)たりや」、お前はそこで、人格高潔な人物を発見したか、と聞きました。
そこで、【子游(しゆう)】は、『「澹台滅(たんだいめつ)明(めい)」なる者(もの)あり、行(ゆ)くに径(こみち)によらず』と。
【澹台滅(たんだいめつ)明(めい)】という者がおります。彼は常に大道を歩み、決して人の踏むべき道を外れません。この会話が出典です。人間は、得てして姑息な手段を取ったり、近道をしたり、はたまた小利に目が眩んだり等、心が揺らぎ勝ちになります。
しかし、私達は常に正々堂々と大道を歩むことが、肝心なのではないでしょうか。
大道を歩むことは、遠回りに見えても一番の近道です。
漢学博士・諸橋(もろはし)轍(てつ)次(じ)氏の出生地、三条市(旧下田村)にある、『諸橋(もろはし)轍(てつ)次(じ)記念館(きねんかん)』の正面玄関の壁面に、この四文字が掲げられています。
皆さんも是非一度ご覧になられたら如何でしょうか。~
(訳…径(こみち)・近道をせず、遠回りと思っても大道(だいどう)を一歩一歩着実に歩めの意)
~ 【孔子(こうし)】と【子游(しゆう)】の会話の中にある言葉です。
【子游(しゆう)】が武(ぶ)城(じょう)という町の宰(さい)(首相)になった時、【孔子(こうし)】が「汝(なんじ)、人(ひと)を得(え)たりや」、お前はそこで、人格高潔な人物を発見したか、と聞きました。
そこで、【子游(しゆう)】は、『「澹台滅(たんだいめつ)明(めい)」なる者(もの)あり、行(ゆ)くに径(こみち)によらず』と。
【澹台滅(たんだいめつ)明(めい)】という者がおります。彼は常に大道を歩み、決して人の踏むべき道を外れません。この会話が出典です。人間は、得てして姑息な手段を取ったり、近道をしたり、はたまた小利に目が眩んだり等、心が揺らぎ勝ちになります。
しかし、私達は常に正々堂々と大道を歩むことが、肝心なのではないでしょうか。
大道を歩むことは、遠回りに見えても一番の近道です。
漢学博士・諸橋(もろはし)轍(てつ)次(じ)氏の出生地、三条市(旧下田村)にある、『諸橋(もろはし)轍(てつ)次(じ)記念館(きねんかん)』の正面玄関の壁面に、この四文字が掲げられています。
皆さんも是非一度ご覧になられたら如何でしょうか。~
2010年05月11日
伝習会〈第十二回〉
【人生(じんせい)の大病(たいびょう)は只(ただ)これ一(いつ)の傲(ごう)の字(じ)なり】…伝習録(でんしゅうろく)(王陽明(おうようめい))
(訳…人生における最大の病気は傲(ごう)の病(やま)いに罹(かか)ることである。人間誰しも生老病死は避けて通れませんが、この、【傲(ごう)】の病(傲慢の病)にだけは罹ってはいけないと言う戒めの言葉です)
~ 人間は一生のうちに色々な病気に罹(かか)るが、この【傲(ごう)】の病気にだけは決して罹(かか)ってはならない、という大切な戒めの言葉です。
お恥ずかしい話ですが、かって私は、この罹(かか)ってはならない大病に罹(かか)ってしまい、大変な不信をかった苦い経験があります。
自分では、謙虚な姿勢で頭を低く下げていたと思っていたのですが、低くしていたと思っていたのは自分ばかりで、他人から見れば、それは今流でいう『イナバウアー』だったのです。
今、思うに、汗顔の至りです。戒めの言葉として、心して行きたいと思います。
老子の骨子も、「謙虚であれ」ということで、謙虚は【傲】の反対です。
【和光同塵(わこうどうじん)】と言う言葉は、広く知られておりますが、原文は【その光(ひかり)を 和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(おな)じゅうす】です。いわゆる、能力を包み隠して世俗と同調すると言う意味で、厳しい現実を生き残る為の賢明な処世法だと主張しています。王陽明は、【傲】になったのでは、処世上のマイナスばかりでなく、むしろ、自分を進歩向上させる上でも大きなマイナスだと強調しています。
【菜根譚(さいこんたん)】という本にも同じような言葉があります。
【人(じん)主(しゅ)の患(わずら)いは傲(ごう)の一字(いちじ)にあり】と、ともに傲慢(ごうまん)の大病に罹(かか)ってはならない、と忠告しています。【傲】は、生きていく上で最大の障害だと、肝に銘じるべきでしょう。私は、自分への戒めとして、次のように簡略にして【座右(ざゆう)の銘(めい)】にしております。【人生(じんせい)の大病(たいびょう)は傲(ごう)の一字なり】と。 ~
(訳…人生における最大の病気は傲(ごう)の病(やま)いに罹(かか)ることである。人間誰しも生老病死は避けて通れませんが、この、【傲(ごう)】の病(傲慢の病)にだけは罹ってはいけないと言う戒めの言葉です)
~ 人間は一生のうちに色々な病気に罹(かか)るが、この【傲(ごう)】の病気にだけは決して罹(かか)ってはならない、という大切な戒めの言葉です。
お恥ずかしい話ですが、かって私は、この罹(かか)ってはならない大病に罹(かか)ってしまい、大変な不信をかった苦い経験があります。
自分では、謙虚な姿勢で頭を低く下げていたと思っていたのですが、低くしていたと思っていたのは自分ばかりで、他人から見れば、それは今流でいう『イナバウアー』だったのです。
今、思うに、汗顔の至りです。戒めの言葉として、心して行きたいと思います。
老子の骨子も、「謙虚であれ」ということで、謙虚は【傲】の反対です。
【和光同塵(わこうどうじん)】と言う言葉は、広く知られておりますが、原文は【その光(ひかり)を 和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(おな)じゅうす】です。いわゆる、能力を包み隠して世俗と同調すると言う意味で、厳しい現実を生き残る為の賢明な処世法だと主張しています。王陽明は、【傲】になったのでは、処世上のマイナスばかりでなく、むしろ、自分を進歩向上させる上でも大きなマイナスだと強調しています。
【菜根譚(さいこんたん)】という本にも同じような言葉があります。
【人(じん)主(しゅ)の患(わずら)いは傲(ごう)の一字(いちじ)にあり】と、ともに傲慢(ごうまん)の大病に罹(かか)ってはならない、と忠告しています。【傲】は、生きていく上で最大の障害だと、肝に銘じるべきでしょう。私は、自分への戒めとして、次のように簡略にして【座右(ざゆう)の銘(めい)】にしております。【人生(じんせい)の大病(たいびょう)は傲(ごう)の一字なり】と。 ~
2010年04月21日
伝習会〈第十一回〉
【 先(せん) 憂(ゆう) 後(こう) 楽(らく) 】…范仲淹(はんちゅうえん)の岳(がく)陽楼(ようろう)の記(き)
(訳…憂いや心配事は人の先に心配し、楽しみは、人が楽しんだ後から楽しむこと)
~ 元文は、『天下(てんか)の憂(うれ)いに先(さき)んじて憂(うれ)い、天下(てんか)の楽(たの)しみに後(おく)れて楽(たの)しむ』とあります。
ここから標記の「四字熟語」となりました。
これは、政治家への心構え、戒めの言葉として知られています。
為政者は、世の安危、心配事、憂いなどを国民に先立って処理し、楽しみは、世の人の楽しみを見届けてから、後で楽しみなさいということでしょう。
これは、なにも政治家だけに限らず、人の上に立つ者は、等しく心掛けなくてはならない大切な事だと思います。
岳(がく)陽楼(ようろう)は、洞庭(どうてい)湖(こ)のほとりに建てられた楼閣です。中国を代表する名楼の一つに数えられ、現在でも観光客で賑わっており、【岳(がく)陽楼(ようろう)の記(き)】も掲げられているそうです。
岡山県と東京都にある【後楽園】の名称は、この故事から名付けられたものです。~
(訳…憂いや心配事は人の先に心配し、楽しみは、人が楽しんだ後から楽しむこと)
~ 元文は、『天下(てんか)の憂(うれ)いに先(さき)んじて憂(うれ)い、天下(てんか)の楽(たの)しみに後(おく)れて楽(たの)しむ』とあります。
ここから標記の「四字熟語」となりました。
これは、政治家への心構え、戒めの言葉として知られています。
為政者は、世の安危、心配事、憂いなどを国民に先立って処理し、楽しみは、世の人の楽しみを見届けてから、後で楽しみなさいということでしょう。
これは、なにも政治家だけに限らず、人の上に立つ者は、等しく心掛けなくてはならない大切な事だと思います。
岳(がく)陽楼(ようろう)は、洞庭(どうてい)湖(こ)のほとりに建てられた楼閣です。中国を代表する名楼の一つに数えられ、現在でも観光客で賑わっており、【岳(がく)陽楼(ようろう)の記(き)】も掲げられているそうです。
岡山県と東京都にある【後楽園】の名称は、この故事から名付けられたものです。~
2010年04月08日
伝習会〈第十回〉
【 慎(しん) 独(どく) 】………大(だい)学(がく)
(訳…独(ひとり)を慎(つつし)むと訓読みする。人が見ていようがいまいが自らの行いを慎んで、良心に恥じる事のないようにすること)
~ 元文は【君子(くんし)は必(かなら)ず其(そ)の独(ひと)りを慎(つつし)む】となっています。立派な人物は、必ず一人になっても自らの行動を慎み、決して天や良心に恥じる行動はとらない、という意味です。また、老子も次のように言っています。
【天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず】(天という網は、とてつもなく大きく粗い目であるが、決して悪は見逃さない)といいます。人が見ていないから、何をしても分からないと思っていても、天は必ず見ている。如何に一人になった時の行動が大切かを言っております。
この【独を慎む】という言葉は、自らを向上する為にも、また【信頼】を得るも失うもこの一字にあることを、心される事が大切です。
後漢の第四代和帝(わてい)の時代に、楊震(ようしん)という人が地方の長官に赴任した時、楊震の幼友達が夜中に大金を渡そうとしました。「誰も見ておりませんから、どうかお納め下さい。」と言ったところ、楊震(ようしん)は『天(てん)知(し)る、地(ち)知(し)る、我(われ)知(し)る、子(し)知(し)る』といい、誰が知らないと言えようか。天が知り、地が知り、私が知り、貴方が知っている。と言って諌めました。これは『楊震(ようしん)の四(し)知(ち)』として、知られています。
自らを律する人として尊敬されました。つぎに、【独(ひと)りを慎(つつし)む】と類似の故事があります。
1.【暗室(あんしつ)を欺(あざむ)かず】(暗い所でも身を慎む)……宋史
2.【屋漏(おくろう)に愧(は)じず】(家の奥で、人が見ていない所でも、恥かしい事はやらない)書経
これと反対の故事は【小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす】…大学
(つまらない人間は暇だとロクな事をしない)~
(訳…独(ひとり)を慎(つつし)むと訓読みする。人が見ていようがいまいが自らの行いを慎んで、良心に恥じる事のないようにすること)
~ 元文は【君子(くんし)は必(かなら)ず其(そ)の独(ひと)りを慎(つつし)む】となっています。立派な人物は、必ず一人になっても自らの行動を慎み、決して天や良心に恥じる行動はとらない、という意味です。また、老子も次のように言っています。
【天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず】(天という網は、とてつもなく大きく粗い目であるが、決して悪は見逃さない)といいます。人が見ていないから、何をしても分からないと思っていても、天は必ず見ている。如何に一人になった時の行動が大切かを言っております。
この【独を慎む】という言葉は、自らを向上する為にも、また【信頼】を得るも失うもこの一字にあることを、心される事が大切です。
後漢の第四代和帝(わてい)の時代に、楊震(ようしん)という人が地方の長官に赴任した時、楊震の幼友達が夜中に大金を渡そうとしました。「誰も見ておりませんから、どうかお納め下さい。」と言ったところ、楊震(ようしん)は『天(てん)知(し)る、地(ち)知(し)る、我(われ)知(し)る、子(し)知(し)る』といい、誰が知らないと言えようか。天が知り、地が知り、私が知り、貴方が知っている。と言って諌めました。これは『楊震(ようしん)の四(し)知(ち)』として、知られています。
自らを律する人として尊敬されました。つぎに、【独(ひと)りを慎(つつし)む】と類似の故事があります。
1.【暗室(あんしつ)を欺(あざむ)かず】(暗い所でも身を慎む)……宋史
2.【屋漏(おくろう)に愧(は)じず】(家の奥で、人が見ていない所でも、恥かしい事はやらない)書経
これと反対の故事は【小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす】…大学
(つまらない人間は暇だとロクな事をしない)~
2010年03月18日
伝習会〈第九回〉
【断(だん) 腸(ちょう) の 思(おも) い】……後(ご)漢書(かんじょ)
(訳……腸がちぎれるほど、悲しいこと)
~ これは世説(せせつ)新語(しんご)の中にある次のような出来事からの故事です。
晋(しん)の武将桓(かん)温(おん)が船で山峡(さんきょう)を渡っていた時、部下の一人が猿の子供を捕らえて船に乗せて連れて行きました。これを見た母猿はビックリして、悲しい泣き声で叫び続け、百里以上も岸づたいに、どこまでも追って来て、ついに船に飛び移ることが出来ました。母猿は子猿の所に行き、抱きかかえると同時に息絶えて死んでしまいました。
その母猿のお腹を割いて見ると、腸がずたずたに千切れていたそうです。
ここから、腸がずたずたに千切れるほどに、悲しいことを【断腸(だんちょう)の思(おも)い】という故事になりました。桓(かん)温(おん)は、子猿を捕まえた部下を罷免しました。
動物を愛する気持ち、人を思いやる気持ちは、人間として最も大切なことではないでしょうか。
原文は【腸(ちょう)皆(みな)寸寸(すんすん)に断(た)えたり】とあります。
(訳……腸がちぎれるほど、悲しいこと)
~ これは世説(せせつ)新語(しんご)の中にある次のような出来事からの故事です。
晋(しん)の武将桓(かん)温(おん)が船で山峡(さんきょう)を渡っていた時、部下の一人が猿の子供を捕らえて船に乗せて連れて行きました。これを見た母猿はビックリして、悲しい泣き声で叫び続け、百里以上も岸づたいに、どこまでも追って来て、ついに船に飛び移ることが出来ました。母猿は子猿の所に行き、抱きかかえると同時に息絶えて死んでしまいました。
その母猿のお腹を割いて見ると、腸がずたずたに千切れていたそうです。
ここから、腸がずたずたに千切れるほどに、悲しいことを【断腸(だんちょう)の思(おも)い】という故事になりました。桓(かん)温(おん)は、子猿を捕まえた部下を罷免しました。
動物を愛する気持ち、人を思いやる気持ちは、人間として最も大切なことではないでしょうか。
原文は【腸(ちょう)皆(みな)寸寸(すんすん)に断(た)えたり】とあります。
2010年03月07日
伝習会〈第八回〉
【 糟糠(そうこう)の妻(つま)は堂(どう)より下(くだ)さず 】……後(ご)漢書(かんじょ)
(訳… 糟糠(そうこう)は酒かすや米ぬかで、粗末な食べ物のことです。貧しい時代、共に苦労をして来た妻は、例え夫が後に偉くなり出世をしても、家から追い出すようなことをしてはならない)
~ これは後漢(ごかん)の初代皇帝・光武(こうぶ)帝(てい)(劉(りゅう)秀(しゅう))と大司(だいし)空(くう)・宋(そう)弘(こう)との会話からの故事です。光武(こうぶ)帝(てい)に未亡人の姉・湖(こ)陽(よう)公(こう)主(しゅ)がおりました。武(ぶ)帝(てい)は、姉が兼ねてから宋(そう)弘(こう)に心を寄せていることを知っていました。
姉思いの武(ぶ)帝(てい)は、姉に「宋(そう)弘(こう)の気持ちを聞いてみるので、貴女はその屏風の陰に隠れて聞いていて下さい」と言って宋(そう)弘(こう)を呼び出して、次のような話をしました。
「宋(そう)弘(こう)殿(どの)、諺にもあるが、【貴く(たっと)して交(まじ)わりを易(か)え、富(とみ)ては妻(つま)を易(か)う】
(訳は、地位が高くなったら、地位に相応しい相手に変えるし、財力も豊かになって来たら、財力に相応しい妻に変える)、とあるが、宋(そう)弘(こう)殿(どの)はどう思われるかの」すると宋(そう)弘(こう)は、
「【貧賎(ひんせん)の交(まじ)わりは忘(わす)るべからず、(貧しかった時の友は、いつまでも忘れない)
糟糠(そうこう)の妻(つま)は堂(どう)より下(くだ)さず】と聞いております」。
☆…泣かせるねえ、宋(そう)弘(こう)は。~
(訳… 糟糠(そうこう)は酒かすや米ぬかで、粗末な食べ物のことです。貧しい時代、共に苦労をして来た妻は、例え夫が後に偉くなり出世をしても、家から追い出すようなことをしてはならない)
~ これは後漢(ごかん)の初代皇帝・光武(こうぶ)帝(てい)(劉(りゅう)秀(しゅう))と大司(だいし)空(くう)・宋(そう)弘(こう)との会話からの故事です。光武(こうぶ)帝(てい)に未亡人の姉・湖(こ)陽(よう)公(こう)主(しゅ)がおりました。武(ぶ)帝(てい)は、姉が兼ねてから宋(そう)弘(こう)に心を寄せていることを知っていました。
姉思いの武(ぶ)帝(てい)は、姉に「宋(そう)弘(こう)の気持ちを聞いてみるので、貴女はその屏風の陰に隠れて聞いていて下さい」と言って宋(そう)弘(こう)を呼び出して、次のような話をしました。
「宋(そう)弘(こう)殿(どの)、諺にもあるが、【貴く(たっと)して交(まじ)わりを易(か)え、富(とみ)ては妻(つま)を易(か)う】
(訳は、地位が高くなったら、地位に相応しい相手に変えるし、財力も豊かになって来たら、財力に相応しい妻に変える)、とあるが、宋(そう)弘(こう)殿(どの)はどう思われるかの」すると宋(そう)弘(こう)は、
「【貧賎(ひんせん)の交(まじ)わりは忘(わす)るべからず、(貧しかった時の友は、いつまでも忘れない)
糟糠(そうこう)の妻(つま)は堂(どう)より下(くだ)さず】と聞いております」。
☆…泣かせるねえ、宋(そう)弘(こう)は。~
2010年02月27日
伝習会〈第七回〉
【 欹 器 以 満 覆 】
(読み…いきはみつるをもってくつがえる)………菜根譚(さいこんたん)
(訳…器(うつわ)も一杯になれば必ずこぼれる、満ちて覆(くつがえ)らないものはない)
~ 元文は【欹器(いき)は満(みつる)を以(も)って覆り(くつがえ)、撲(ぼく)満(まん)は空(むな)しきを以(も)って全(まっと)うす】
【故(ゆえ)に君子(くんし)はむしろ無(む)におるも有(ゆう)におらず】
【寧(むし)ろ欠(けつ)におるも有(ゆう)におらず】~
(訳…欹器(いき)は空の時は傾き、水を半分入れると真っ直ぐに立ち、水を一杯に満たすとひっくり返ってしまうと言う器。撲(ぼく)満(まん)は土器製の貯金箱で、中が空であるからこそ、その形を完全に保っている。満ちて覆らない者はいない。
故に、リーダーは“無(む)”の境地に身を置き、不足を善として完全を求めない)
欹器(いき)は【有坐(ゆうざ)の器(き)】とも言われています。常に自らを戒める為に、座右に置いたものと思われます。
☆…【足(た)るを知(し)れば辱(はずかし)められず】…老子
(何事も控え目にしていれば、辱しめを受けない)
これを【止(し)足(そく)の戒(いまし)め】といっています。
2010年02月15日
伝習会〈第六回〉
【乾(けん)坤(こん)一(いっ)擲(てき)】……史(し)記(き)
(訳…運命・命を懸けて、のるかそるかの勝負をすること)
~この四字熟語の出典は、第四回の【四面楚歌(しめんそか)】と関連します。
それは、次の詩からでたものです。
☆…【竜疲(りゅうつか)れ、虎苦(とらくる)しみて川原(せんげん)を割(さ)く】
(訳…五年に及ぶ楚漢(そかん)の戦いで竜・劉邦(りゅうほう)は疲れ、虎・項羽(こうう)も苦しみ、戦いも限界に至り、その結果、鴻(こう)溝(こう)という川を境に、東西を二分して、東を楚(そ)、西を漢(かん)と取り決め、終戦とした。)
☆…【億(おく)万(まん)の蒼生(そうせい)、性(せい)命(めい)存(そん)す】
(訳…其の為に、億万の民の生命は保たれるはずであった。)
☆…【誰(だれ)か君主(くんしゅ)に勧(すす)めて馬首(ばしゅ)を回(かえ)さしむ】
(訳…ところが、劉邦(りゅうほう)の軍師・張(ちょう)良(りょう)と陳(ちん)平(ぺい)は、劉邦(りゅうほう)の馬首を返して、項羽(こうう)を追撃することを勧めた。)
☆…【真(しん)成(せい)に一擲(いってき)、乾坤(けんこん)を賭(と)す
(訳…そこで、劉邦(りゅうほう)は【乾坤(けんこん)一擲(いってき)】の勝負を挑みました。)
ここから、最後の決着が付く【垓下(がいか)の戦い】へと進み、【四面楚歌(しめんそか)】が生まれるという場面に移って行きます。乾坤(けんこん)は天と地のこと、
一擲(いってき)は一度に全てを投げ打つこと。
この【乾坤(けんこん)一擲(いってき)】の張(ちょう)良(りょう)の策がなかったら、漢(かん)帝国(ていこく)の誕生はなかったことでしょう。~
(訳…運命・命を懸けて、のるかそるかの勝負をすること)
~この四字熟語の出典は、第四回の【四面楚歌(しめんそか)】と関連します。
それは、次の詩からでたものです。
☆…【竜疲(りゅうつか)れ、虎苦(とらくる)しみて川原(せんげん)を割(さ)く】
(訳…五年に及ぶ楚漢(そかん)の戦いで竜・劉邦(りゅうほう)は疲れ、虎・項羽(こうう)も苦しみ、戦いも限界に至り、その結果、鴻(こう)溝(こう)という川を境に、東西を二分して、東を楚(そ)、西を漢(かん)と取り決め、終戦とした。)
☆…【億(おく)万(まん)の蒼生(そうせい)、性(せい)命(めい)存(そん)す】
(訳…其の為に、億万の民の生命は保たれるはずであった。)
☆…【誰(だれ)か君主(くんしゅ)に勧(すす)めて馬首(ばしゅ)を回(かえ)さしむ】
(訳…ところが、劉邦(りゅうほう)の軍師・張(ちょう)良(りょう)と陳(ちん)平(ぺい)は、劉邦(りゅうほう)の馬首を返して、項羽(こうう)を追撃することを勧めた。)
☆…【真(しん)成(せい)に一擲(いってき)、乾坤(けんこん)を賭(と)す
(訳…そこで、劉邦(りゅうほう)は【乾坤(けんこん)一擲(いってき)】の勝負を挑みました。)
ここから、最後の決着が付く【垓下(がいか)の戦い】へと進み、【四面楚歌(しめんそか)】が生まれるという場面に移って行きます。乾坤(けんこん)は天と地のこと、
一擲(いってき)は一度に全てを投げ打つこと。
この【乾坤(けんこん)一擲(いってき)】の張(ちょう)良(りょう)の策がなかったら、漢(かん)帝国(ていこく)の誕生はなかったことでしょう。~
2010年02月03日
伝習会〈第五回〉
【 四(し) 面(めん) 楚(そ) 歌(か) 】……史(し)記(き)
(訳…周囲が、みな敵に囲まれて、孤立無援の状態)
~ これはよく知られている四字熟語で、【四面楚歌(しめんそか)】とはと、問われて答えられない人はいないと思います。では、周囲がみな敵で孤立無援の様子を何故、【四面楚歌(しめんそか)】と言うのか。?
これが、世に言う、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の『楚漢(そかん)の戦い』から生まれた故事です。
この戦いはB.C200年から5年に及ぶ戦いで、いよいよ最後の決着の時が来た時に、追い詰められた項羽は、垓下(がいか)の城に立てこもりました。その夜、どこからともなく項羽(こうう)の故郷(ふるさと)・楚(そ)の歌が聞こえてきたのです。それも東西南北の四面(よんめん)から聞こえて来ました。
これを聞いた項羽は「漢(かん)は既に楚(そ)を降したのか。敵軍の中に、なんと楚の国の人が多いことか」と嘆きました。
四面(よんめん)がみな楚歌(そか)の歌になった、というところから【四面楚歌(しめんそか)】となりました。
しかしこれは漢の罠だったのです。漢の軍師・張(ちょう)良(りょう)が漢の兵に楚の歌をうたわせた策だったのです。
【垓下(がいか)の歌】…項羽(こうう) (項羽(こうう)は、ここから、烏(う)江(こう)まで敗走する)
【力(ちから)は山(やま)を抜(ぬ)き 気(き)は世(よ)を蓋(おお)う 時(とき)に利(り)あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅(すい)逝(ゆ)かざる 奈可(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞(ぐ)や 若(なんじ)を奈何(いかん)せん】
歌(うた)うこと数闋(すうけつ)、美人之(びじんこれ)に和(わ)す。項(こう)王(おう)、泣(なみ)だ数行(すうぎょう)下(くだ)る。左右(さゆう)皆泣(みなな)き、能(よ)く仰(あお)ぎ見(み)るもの莫(な)し。
(訳…我が力は山をも引き抜き、気は天下をおおう程である。だが、時勢は我れに味方せず愛馬の騅も進まない。騅よ、お前が進まなければ、どうすればよいのだ。そして、虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのだ。歌うこと数回、虞美人も声を合わせて歌った。
項王の涙が幾筋か流れ落ちた。近臣たちも皆泣いて、項王を仰ぎ見る者はいなかった。)~
(訳…周囲が、みな敵に囲まれて、孤立無援の状態)
~ これはよく知られている四字熟語で、【四面楚歌(しめんそか)】とはと、問われて答えられない人はいないと思います。では、周囲がみな敵で孤立無援の様子を何故、【四面楚歌(しめんそか)】と言うのか。?
これが、世に言う、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の『楚漢(そかん)の戦い』から生まれた故事です。
この戦いはB.C200年から5年に及ぶ戦いで、いよいよ最後の決着の時が来た時に、追い詰められた項羽は、垓下(がいか)の城に立てこもりました。その夜、どこからともなく項羽(こうう)の故郷(ふるさと)・楚(そ)の歌が聞こえてきたのです。それも東西南北の四面(よんめん)から聞こえて来ました。
これを聞いた項羽は「漢(かん)は既に楚(そ)を降したのか。敵軍の中に、なんと楚の国の人が多いことか」と嘆きました。
四面(よんめん)がみな楚歌(そか)の歌になった、というところから【四面楚歌(しめんそか)】となりました。
しかしこれは漢の罠だったのです。漢の軍師・張(ちょう)良(りょう)が漢の兵に楚の歌をうたわせた策だったのです。
【垓下(がいか)の歌】…項羽(こうう) (項羽(こうう)は、ここから、烏(う)江(こう)まで敗走する)
【力(ちから)は山(やま)を抜(ぬ)き 気(き)は世(よ)を蓋(おお)う 時(とき)に利(り)あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅(すい)逝(ゆ)かざる 奈可(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞(ぐ)や 若(なんじ)を奈何(いかん)せん】
歌(うた)うこと数闋(すうけつ)、美人之(びじんこれ)に和(わ)す。項(こう)王(おう)、泣(なみ)だ数行(すうぎょう)下(くだ)る。左右(さゆう)皆泣(みなな)き、能(よ)く仰(あお)ぎ見(み)るもの莫(な)し。
(訳…我が力は山をも引き抜き、気は天下をおおう程である。だが、時勢は我れに味方せず愛馬の騅も進まない。騅よ、お前が進まなければ、どうすればよいのだ。そして、虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのだ。歌うこと数回、虞美人も声を合わせて歌った。
項王の涙が幾筋か流れ落ちた。近臣たちも皆泣いて、項王を仰ぎ見る者はいなかった。)~
2010年01月26日
伝習会〈第四回〉
【 背(はい) 水(すい) の 陣(じん) 】………史記(しき)
(訳…追い詰められて、もう後には引けないこと。また自分を厳しい立場に置いて、力を出そうということ。絶対絶命の状況とか立場)
~ 孫子の兵法には、「陣を張る時、山や丘を背にし、川や沼沢(しょうたく)は前とす」と記されています。漢(かん)の【韓(かん)信(しん)】は全く反対の戦法をとり、大勝したのです。
その戦いとは……
秦(しん)の【始皇帝(しこうてい)】亡き後、漢(かん)の【劉邦(りゅうほう)】と楚(そ)の【項羽(こうう)】の両雄が、激しい戦いを繰り広げていました。方(かた)や漢(かん)の総大将・【韓(かん)信(しん)】は、【劉邦(りゅうほう)】とは別部隊を率いて、一万二千の兵で二十万の趙軍(ちょうぐん)と川を背にして対陣したのです。
これを見た趙軍(ちょうぐん)は、戦い方を知らない漢軍(かんぐん)を大いに笑いました。
しかし、【韓(かん)信(しん)】は兵士に 「さあ、今日は趙軍(ちょうぐん)に勝って、盛大に祝おう」と一人悦に入っていましたが、誰も本気にしませんでした。それはそうでしょう。二十万対一万二千では、到底、勝ち目があるとは思われなかった訳です。ところが、戦いが始まると、兵士は後(うしろ)が川でもう後(あと)がない訳ですから、死にもの狂いで戦って、とうとう勝ってしまったのです。
【韓(かん)信(しん)】は孫子(そんし)の兵法を知っていたのです。
『軍(ぐん)を死地(しち)に陥(おとしい)れることによって、逆(ぎゃく)に生還(せいかん)する事(こと)ができ、亡地(ぼうち)に置(お)く事(こと)によって、逆(ぎゃく)に生(い)き抜(ぬ)く事(こと)ができる』と。~
(訳…追い詰められて、もう後には引けないこと。また自分を厳しい立場に置いて、力を出そうということ。絶対絶命の状況とか立場)
~ 孫子の兵法には、「陣を張る時、山や丘を背にし、川や沼沢(しょうたく)は前とす」と記されています。漢(かん)の【韓(かん)信(しん)】は全く反対の戦法をとり、大勝したのです。
その戦いとは……
秦(しん)の【始皇帝(しこうてい)】亡き後、漢(かん)の【劉邦(りゅうほう)】と楚(そ)の【項羽(こうう)】の両雄が、激しい戦いを繰り広げていました。方(かた)や漢(かん)の総大将・【韓(かん)信(しん)】は、【劉邦(りゅうほう)】とは別部隊を率いて、一万二千の兵で二十万の趙軍(ちょうぐん)と川を背にして対陣したのです。
これを見た趙軍(ちょうぐん)は、戦い方を知らない漢軍(かんぐん)を大いに笑いました。
しかし、【韓(かん)信(しん)】は兵士に 「さあ、今日は趙軍(ちょうぐん)に勝って、盛大に祝おう」と一人悦に入っていましたが、誰も本気にしませんでした。それはそうでしょう。二十万対一万二千では、到底、勝ち目があるとは思われなかった訳です。ところが、戦いが始まると、兵士は後(うしろ)が川でもう後(あと)がない訳ですから、死にもの狂いで戦って、とうとう勝ってしまったのです。
【韓(かん)信(しん)】は孫子(そんし)の兵法を知っていたのです。
『軍(ぐん)を死地(しち)に陥(おとしい)れることによって、逆(ぎゃく)に生還(せいかん)する事(こと)ができ、亡地(ぼうち)に置(お)く事(こと)によって、逆(ぎゃく)に生(い)き抜(ぬ)く事(こと)ができる』と。~
2009年12月13日
伝習会〈第三回〉
【 覆(ふく) 水(すい) 盆(ぼん) に 返(かえ) ら ず 】………拾遺記(しゅういき)
(訳…覆水(ふくすい)とは、こぼれた水のこと、盆(ぼん)とは水などを入れる平(ひら)たい鉢(はち)のことで、盆からこぼれた水は二度と元の盆に戻すことは出来ないことから、別れた夫婦は復縁しないことや、取り返しがつかない事の例えです)
~これは、【太公望(たいこうぼう)】が言った次の言葉が出典です。
【若(なんじ)、能(よく)く離(はな)れて更(ふたた)び合(あ)わんとするも、覆水(ふくすい)は定(さだ)めて収(おさ)め難(がた)し】
(そなたは、別れてもまた、元に戻れると思っているようだが、ごらん、盆からこぼれた水は、もう二度と元に戻れないのだよ)
これも、よく知られている故事ですが、第一回の【太公望(たいこうぼう)】に係わっています。太公望の名前は呂(りょ)尚(しょう)といいます。
その呂(りょ)尚(しょう)に馬(ば)氏(し)と言う名前の妻がいました。呂(りょ)尚(しょう)は働きもせず、読書ばかりしていたので、妻は愛想をつかして離縁しました。
ところが、第一回でご承知のように、その後、呂(りょ)尚(しょう)は周(しゅう)の文(ぶん)王(のう)にみそめられ、大変出世をしました。また、斉(せい)の国の元祖(がんそ)にもなりました。
離縁した妻は復縁をして欲しいと頼みました。
その時、太公望は盆の水を床にこぼして、『この水(みず)を盆(ぼん)に戻(もど)してみよ』と言ったことからの故事です。この後、元妻は自殺をしてしまいました。
確かに、太公望は偉い人だと思いますが、皆さんは、太公望という人をどう感じられたでしょうか。~
(訳…覆水(ふくすい)とは、こぼれた水のこと、盆(ぼん)とは水などを入れる平(ひら)たい鉢(はち)のことで、盆からこぼれた水は二度と元の盆に戻すことは出来ないことから、別れた夫婦は復縁しないことや、取り返しがつかない事の例えです)
~これは、【太公望(たいこうぼう)】が言った次の言葉が出典です。
【若(なんじ)、能(よく)く離(はな)れて更(ふたた)び合(あ)わんとするも、覆水(ふくすい)は定(さだ)めて収(おさ)め難(がた)し】
(そなたは、別れてもまた、元に戻れると思っているようだが、ごらん、盆からこぼれた水は、もう二度と元に戻れないのだよ)
これも、よく知られている故事ですが、第一回の【太公望(たいこうぼう)】に係わっています。太公望の名前は呂(りょ)尚(しょう)といいます。
その呂(りょ)尚(しょう)に馬(ば)氏(し)と言う名前の妻がいました。呂(りょ)尚(しょう)は働きもせず、読書ばかりしていたので、妻は愛想をつかして離縁しました。
ところが、第一回でご承知のように、その後、呂(りょ)尚(しょう)は周(しゅう)の文(ぶん)王(のう)にみそめられ、大変出世をしました。また、斉(せい)の国の元祖(がんそ)にもなりました。
離縁した妻は復縁をして欲しいと頼みました。
その時、太公望は盆の水を床にこぼして、『この水(みず)を盆(ぼん)に戻(もど)してみよ』と言ったことからの故事です。この後、元妻は自殺をしてしまいました。
確かに、太公望は偉い人だと思いますが、皆さんは、太公望という人をどう感じられたでしょうか。~
2009年12月05日
伝習会〈第二回〉
田中哲雄です。
【太(たい) 公(こう) 望(ぼう)】…………史(し)記(き)
(訳…【太公望(たいこうぼう)】は、ある優れた人物に付けられたニックネームです。その名は【呂(りょ)尚(しょう)】です。
今ではもっぱら釣人の代名詞に使われています。または釣りの好きな人)~『史記(しき)』(司馬遷(しばせん))が出典で、次のような話があります。B.C11世紀頃で、周(しゅう)の【文(ぶん)王(おう)】(西伯(せいはく)昌(しょう)のこと。父は季歴(きれき)。祖父は古公亶(ここうたん)父(ぽ)・太(たい)公(こう))が狩りに出る時占ったところ、【獲(う)る所(ところ)は龍(りゅう)に非(あら)ず、蛟(みずち)に非(あら)ず、虎(とら)に非(あら)ず、羆(ひぐま)に非(あら)ず。獲(う)る所(ところ)は覇王(はおう)の輔(たすけ)なり】(獲物は、普通望む物よりも尚大事なもので、天下に覇を唱える王になる上で、力となってくれる人物だというのです)と出ました。
狩りに出て謂水の辺(ほとり)に来た時、一人の老人が釣りをしていました。【文(ぶん)王(おう)】は“これだ!”と悟って、老人に声を掛けました。自分の祖父の古公亶(ここうたん)父(ぽ)、いわゆる【太(たい)公(こう)】が、よく『まもなく聖人が現れ、この国(周)を隆盛に導くであろう』と言っていたことを思い出して、『これぞ、我が祖父・
太(たい)公(こう)が待ち望(のぞ)んでいた人物である』と喜び、早速召抱(めしかか)えました。それで、 【文(ぶん)王(おう)】は祖父【太(たい)公(こう)】が【望(のぞ)】んでいた人というところから、【呂(りょ)尚(しょう)】を【太公望(たいこうぼう)】と呼びました。その後、【太公望(たいこうぼう)】は【周(しゅう)公(こう)旦(たん)】と力を合わせ、殷(いん)の時代から、新しい周(しゅう)の時代経世(けいせい)に、大きな功績を残した人として、現代にまで、その名を轟かせています。中国では今でも、太公望が、釣りをしていた所として『釣魚台』(ちょうぎょだい)が観光名所となっています。
川柳に『釣ますか などと文王そばにより』などが、あるようです~
【太(たい) 公(こう) 望(ぼう)】…………史(し)記(き)
(訳…【太公望(たいこうぼう)】は、ある優れた人物に付けられたニックネームです。その名は【呂(りょ)尚(しょう)】です。
今ではもっぱら釣人の代名詞に使われています。または釣りの好きな人)~『史記(しき)』(司馬遷(しばせん))が出典で、次のような話があります。B.C11世紀頃で、周(しゅう)の【文(ぶん)王(おう)】(西伯(せいはく)昌(しょう)のこと。父は季歴(きれき)。祖父は古公亶(ここうたん)父(ぽ)・太(たい)公(こう))が狩りに出る時占ったところ、【獲(う)る所(ところ)は龍(りゅう)に非(あら)ず、蛟(みずち)に非(あら)ず、虎(とら)に非(あら)ず、羆(ひぐま)に非(あら)ず。獲(う)る所(ところ)は覇王(はおう)の輔(たすけ)なり】(獲物は、普通望む物よりも尚大事なもので、天下に覇を唱える王になる上で、力となってくれる人物だというのです)と出ました。
狩りに出て謂水の辺(ほとり)に来た時、一人の老人が釣りをしていました。【文(ぶん)王(おう)】は“これだ!”と悟って、老人に声を掛けました。自分の祖父の古公亶(ここうたん)父(ぽ)、いわゆる【太(たい)公(こう)】が、よく『まもなく聖人が現れ、この国(周)を隆盛に導くであろう』と言っていたことを思い出して、『これぞ、我が祖父・
太(たい)公(こう)が待ち望(のぞ)んでいた人物である』と喜び、早速召抱(めしかか)えました。それで、 【文(ぶん)王(おう)】は祖父【太(たい)公(こう)】が【望(のぞ)】んでいた人というところから、【呂(りょ)尚(しょう)】を【太公望(たいこうぼう)】と呼びました。その後、【太公望(たいこうぼう)】は【周(しゅう)公(こう)旦(たん)】と力を合わせ、殷(いん)の時代から、新しい周(しゅう)の時代経世(けいせい)に、大きな功績を残した人として、現代にまで、その名を轟かせています。中国では今でも、太公望が、釣りをしていた所として『釣魚台』(ちょうぎょだい)が観光名所となっています。
川柳に『釣ますか などと文王そばにより』などが、あるようです~
2009年11月24日
伝習会(第一回)
田中哲雄です。
中国古典を研究しています。
【吾(われ)、日(ひ)に吾(わが)身(み)を三省(さんせい)す】……論語(ろんご)(学而(がくじ)第一(だいいち))
(訳…私は、毎日三つのことを反省して自らを戒め、向上するように努力している)
~ 三省(さんせい)(三つの反省)とは次のことをいいます。
1.【人(ひと)の為(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか】(人から相談された時、真心を持って誠実に対応したか)
2.【朋友(ほうゆう)と交(まじ)わりて信(しん)ならざるか】(友人と交際中に、信義を欠くようなことはなかったか)
3.【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】(一寸勉強して、知ったか振りをして人に教えなかったか)
この【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】こそ、私に忠告しているようです。反省!!
私は、この【吾(われ)、日(ひ)に吾(わが)身(み)を三省(さんせい)す】という言葉は、社会人とってとても大切な箴言(しんげん)故事(こじ)だと思っております。
いくつになっても、【反省の心】と、【素直な気持ち】を持ち続けたいものです。これこそ人格向上の根源である、と言っても決して過言ではありません。誰しも、自分は【良い習慣】をしていると思っていても、知らず知らずのうちに、【悪い習慣】になっていないとも限りません。
そこに人が注意してくれた時、いかに【反省】と【素直】の気持ちになれるかです。【悪い習慣】になっているということは、【素】が曲がっているということで、その【素】を真っ【直】ぐに戻す事が、【素直】ということです。
習慣には【良い習慣】と【悪い習慣】がある。【良い習慣】は天子であり、【悪い習慣】は化け物である、とシェックスピアが説いてます。
さて、当会の「伝習会(でんしゅうかい)」の名称も、中国の故事を習い伝えていこう、という趣旨で、この【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】から名付けました。
また、【三省堂(さんせいどう)】の名称もここが出典です。~
中国古典を研究しています。
【吾(われ)、日(ひ)に吾(わが)身(み)を三省(さんせい)す】……論語(ろんご)(学而(がくじ)第一(だいいち))
(訳…私は、毎日三つのことを反省して自らを戒め、向上するように努力している)
~ 三省(さんせい)(三つの反省)とは次のことをいいます。
1.【人(ひと)の為(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか】(人から相談された時、真心を持って誠実に対応したか)
2.【朋友(ほうゆう)と交(まじ)わりて信(しん)ならざるか】(友人と交際中に、信義を欠くようなことはなかったか)
3.【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】(一寸勉強して、知ったか振りをして人に教えなかったか)
この【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】こそ、私に忠告しているようです。反省!!
私は、この【吾(われ)、日(ひ)に吾(わが)身(み)を三省(さんせい)す】という言葉は、社会人とってとても大切な箴言(しんげん)故事(こじ)だと思っております。
いくつになっても、【反省の心】と、【素直な気持ち】を持ち続けたいものです。これこそ人格向上の根源である、と言っても決して過言ではありません。誰しも、自分は【良い習慣】をしていると思っていても、知らず知らずのうちに、【悪い習慣】になっていないとも限りません。
そこに人が注意してくれた時、いかに【反省】と【素直】の気持ちになれるかです。【悪い習慣】になっているということは、【素】が曲がっているということで、その【素】を真っ【直】ぐに戻す事が、【素直】ということです。
習慣には【良い習慣】と【悪い習慣】がある。【良い習慣】は天子であり、【悪い習慣】は化け物である、とシェックスピアが説いてます。
さて、当会の「伝習会(でんしゅうかい)」の名称も、中国の故事を習い伝えていこう、という趣旨で、この【習(なら)わざるを伝(つた)えしか】から名付けました。
また、【三省堂(さんせいどう)】の名称もここが出典です。~