田中哲雄です。
【太(たい) 公(こう) 望(ぼう)】…………史(し)記(き)
(訳…【太公望(たいこうぼう)】は、ある優れた人物に付けられたニックネームです。その名は【呂(りょ)尚(しょう)】です。
今ではもっぱら釣人の代名詞に使われています。または釣りの好きな人)~『史記(しき)』(司馬遷(しばせん))が出典で、次のような話があります。B.C11世紀頃で、周(しゅう)の【文(ぶん)王(おう)】(西伯(せいはく)昌(しょう)のこと。父は季歴(きれき)。祖父は古公亶(ここうたん)父(ぽ)・太(たい)公(こう))が狩りに出る時占ったところ、【獲(う)る所(ところ)は龍(りゅう)に非(あら)ず、蛟(みずち)に非(あら)ず、虎(とら)に非(あら)ず、羆(ひぐま)に非(あら)ず。獲(う)る所(ところ)は覇王(はおう)の輔(たすけ)なり】(獲物は、普通望む物よりも尚大事なもので、天下に覇を唱える王になる上で、力となってくれる人物だというのです)と出ました。
狩りに出て謂水の辺(ほとり)に来た時、一人の老人が釣りをしていました。【文(ぶん)王(おう)】は“これだ!”と悟って、老人に声を掛けました。自分の祖父の古公亶(ここうたん)父(ぽ)、いわゆる【太(たい)公(こう)】が、よく『まもなく聖人が現れ、この国(周)を隆盛に導くであろう』と言っていたことを思い出して、『これぞ、我が祖父・
太(たい)公(こう)が待ち望(のぞ)んでいた人物である』と喜び、早速召抱(めしかか)えました。それで、 【文(ぶん)王(おう)】は祖父【太(たい)公(こう)】が【望(のぞ)】んでいた人というところから、【呂(りょ)尚(しょう)】を【太公望(たいこうぼう)】と呼びました。その後、【太公望(たいこうぼう)】は【周(しゅう)公(こう)旦(たん)】と力を合わせ、殷(いん)の時代から、新しい周(しゅう)の時代経世(けいせい)に、大きな功績を残した人として、現代にまで、その名を轟かせています。中国では今でも、太公望が、釣りをしていた所として『釣魚台』(ちょうぎょだい)が観光名所となっています。
川柳に『釣ますか などと文王そばにより』などが、あるようです~