skymaxです。
2003年2月15日午前3時半過ぎ、遅い帰宅をした私の携帯にメールが着信しました。
妻からの着信でした。
『苦しい』
メールのタイトルでした。
一度も弱音を吐いたことのなかった妻からの、初めての苦痛を訴えるメールでした。
直ぐに折り返し励ましのメールを送りました。
『今から行くから待ってて』
妻からの返信はありませんが、私は直ちに病院に向かう準備を開始しました。
私には迷いがありませんでした。
妻が入院している病院は埼玉県にありました。
私たちが住んでいる新潟県長岡市からは約三時間かかります。
私は眠っていた子供たちを連れて、経営している店に戻りました。
仮眠もとらずにそのまま、売上日報の作成、発注などのコンビニオーナーの最低限の業務を終わらせ、従業員と本部に指示事項を伝えました。
そして始発の新幹線を待って、病院に向かったのです。
妻には頻繁にメールをしました。
『今から駅に向かうよ』
『今、新幹線に乗ったよ』
『もうすぐ着くから』…
しかし、結局妻からは何の返信もありませんでした。
あの『苦しい』が妻からの最後のメールになりました。
駅からタクシーで病院に着いた私たちが案内されたのは集中治療室でした。
酸素マスクを装着され、目をかっと見開いて身体全体で呼吸する妻がそこにいました。
もう話をする事もこちらを振り返ることも出来ませんでした。
子供たちと私が手を握ったのは、かろうじてわかったようです。
必死に呼吸する妻の形相が一瞬和らぎました。
私たちも気が付くと、妻の呼吸に合わせて身体全体で呼吸していました。
苦しくて喉が痛くなってきました。
妻はもうこの状態を何時間も続けていたのです。
「お母さん頑張って」
子供たちの必死の叫びもむなしく、妻は間もなく息を引き取りました。
臨床を告げる医師の低い声、私の頭のなかは真っ白になってしまいました。
「先生っ!、お母さんを生き返させてっ」
子供たちが医師にしがみ付いて、泣き叫んでいました。
「先生、お願いします、お願いします、先生、お願いします」小学1年の娘が、涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら医師にしがみ付いて離れません。
保育園児の息子も一緒になって医師にしがみ付いていました。
狂ったように叫ぶ子供たちを抱きしめながら、私は廊下に出ました。
「お母さ〜ん、お母さ〜ん」と大声で泣き叫ぶ娘と息子。
私は2人を抱きしめながら、一緒に泣きました。
死後の処理が終わり、私たちは再び病室に戻りました。妻の身体は綺麗に化粧され、まるで眠っているようでした。
頬にはまだ温もりが残り、生きているようでした。
妻の枕元のノートには2人の子供たちの名前と私の名前、そして自分自身の名前が書かれていました。