浦添市は7日、障がい者が沖縄戦当時、どのような立場に置かれていたかを学ぼうと「障がい者と沖縄戦」と題した講演会を開いた。県視覚障害者福祉協会会長で強度弱視の山田親幸さん(80)が北部の山中に避難した戦争体験を説明し「家族に守られたから生き延びることができた。戦闘の激しい南部にいたら生きていなかったかもしれない」と語った。沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭さん(80)が、弱い立場にある人たちが強いられた悲惨な体験は十分に語り継がれていないと指摘した。
山田さんは戦中、大宜味村喜如嘉の山中で食料不足に苦しみながら家族11人で3カ月間暮らした。家族が食料を探しに出る昼間に2歳の妹の子守をした。妹が空腹で泣くと周りから「米兵に聞かれる」と怒られた。「両親が米兵に殺されて帰って来なかったらどうしよう」と不安にも駆られた。
山田さんには脳性まひで右半身が不自由だった長兄がいた。徴兵検査で「丙種合格(不合格)」とされ、学校では「米食い虫」と心ない言葉を浴びせられた。長兄は強い負い目を感じてか、軍事情報誌を読み込み、危険が大きい地域の見張り番をするなどの“軍国少年”になった。山田さんは「死んでも構わないと、せめてもの戦争協力だったのだろう」と振り返った。
安仁屋さんは、砲弾が落ちても動じない聴覚障がい者が批判されたり、スパイ扱いされたりし、障がい者自身が「俺たちは邪魔者だ」と、自殺を話し合ったこともあったと話した。妊婦に加え、結核やハンセン病などを患う病人も排除の対象となったとし「事実を踏まえて冷静に実態を把握し、二度と起きないようにしないといけない」と訴えた。
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