アルコール依存症と診断されたのち、依存症治療を専門とする病院で初めて依存症と向き合った元公立中学校教師でアルコール依存症患者の自助グループ「大阪府断酒会」の古田忠さん(68)=堺市美原区。アルコールに対する医学的な知識や、断酒をする仲間らの体験なども参考にしながらリハビリに努め、アルコール専門病院を退院したが、48歳のとき、職場への復帰を前に、大阪府内の市教育委員会に校長とともに呼び出された。(中井美樹)
■職場復帰。依存症の日々語り、新任教師なみに働く
「父母からも苦情が来ている」
市教委側の言葉からは、「退職してほしい」という意図も感じた。
「飲みたくて飲んでたわけでないんや」。心の中で叫んでいた。そして、なかばやけくそという思いで、これまでのことを語り始めた。
なぜ酒を飲み続けることになったのか、どんな飲み方をしたのか…必死で語り続けた。アルコール依存症という病気の怖さや、自分が断酒会に参加していることも話した。
20分ほど話したころ、黙って聞いていた委員の1人が、口を開いた。「もう1度チャンスをあげましょう」。涙があふれた。
このことをきっかけに、職場でも、自分がアルコール依存症であることを話し、再発防止は断酒するしか方法はないとして、そのために「断酒会の例会に出席したい」と思いを告げた。担任やクラブの顧問をしていると、定時で帰るのは難しく、断酒会の例会に出席できなくなるからだった。
そこで、学校では、担任とクラブの顧問を外してもらった。その代わりに、できることを考えた。
毎朝、だれよりも早く出勤し校門を開けた。学年通信を引き受け、入院中に覚えたワープロを使って、月に10回ほど発行。さらに、プリントを印刷したり、教室に配布物を届けたりした。「新任教師なみに動いた」という。
少しずつ周囲の理解も広がった。生徒の家庭訪問をしたときも、時間が遅くなると、保護者が「先生、今日は(断酒会の)例会の日でしょう。早く行ってください」と促してくれた。
こうした支えもあり、自らの断酒が続けられたとも。「(アルコール依存症としっかり向き合い、周囲にも)真剣に話せば分かってくれる。理解してくれる人たちのためにも、一生懸命働いて、断酒も続けなければならない、という気持ちを強くした」
■退職、そして依存症の怖さ伝える日々へ
教師は58歳で退職した。その間、ずっと断酒会に通い続けた。そして、退職後は、一般の人に対して、アルコール依存症について話すことを積極的に行っている。
「自分もそうだったが、自らの意志でやめられないのが依存症の怖さ。周囲に理解してもらって、断酒の環境をつくらないと再飲酒につながってしまう」
8年ほど前、堺市西区の小学校から「6年生にアルコールの怖さを話してほしい」との依頼を受け、引き受けた。断酒会のメンバーも、半数ほどは早くから飲酒し、依存症に陥っていたからだ。
久しぶりに立った教壇。子供たちには、過剰な飲酒が引き起こす依存症の実態を丁寧に話した。
「お墓に供えてあるような腐った酒を飲む、金がなくて酒が買えないと、わが子の貯金箱さえ盗む…。人を大切にする気持ちも、愛する気持ちも飛んでしまう」
自分自身や、断酒会の仲間が体験してきた、壮絶なエピソードを話す古田さんの言葉に、子供たちも真剣に耳を傾けたという。
古田さんの話は、教師らの間で口コミで広がり、今では毎年、7、8校の小中学校で講演している。
酒での苦しい体験を話すことは、決して楽しいことではない。だが、当時を振り返ったとき、酒の怖さを知っていれば、あんな飲み方はしなかった。
「同じような苦しみを抱える人をなくすためにも、活動を続けていく覚悟です」
■ふるた・ただし 昭和20年、愛媛県生まれ。現在、大阪府断酒会副会長として活動中。同会の例会は、府内100カ所以上の会場で定期的に開かれている。場所などの問い合わせは大阪府断酒会((電)072・949・1229)。ホームページ(http://oosakafudann.sunnyday.jp/)でも案内している。
産経新聞
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/medical/snk20130407544.html