「不利益を被っている子は世間を恐れている。その前提で手の差し伸べ方を考えないといけない」=郭允撮影
出生後、親が戸籍を作らず、学校に通わせてもらえず、社会の枠外に置かれた“見えない子どもたち”がいる。子どもの権利が保障されているはずの先進国日本で、なぜそんな境遇に置かれるのか。私たちはどうすればいいのか。家族や親子関係を通して現代社会に向き合ってきた作家の天童荒太さんに聞いた。
――現代の日本で、政府からも自治体からも存在を認知されていない子どもたちがいることは驚きです。
「私もこうした子どもの存在をほとんど知りませんでした。国や社会による救済は進まず、成人して就職、結婚、出産など、様々な面で苦しんでいるに違いありません。なぜ彼らの存在が表面化しないのか。まず親に後ろめたさがあり、積極的に知ってもらおうとしない。子ども自身はどうしていいかわからない。そして政治も、当事者意識が乏しく、選挙の争点にもならないから動きが鈍い。それらが重なり合って、問題が顕在化しないのでしょう」
「行政の現場で、感づいている人もいないわけではないでしょう。実際に事件などで表面化しているケースもあります。にもかかわらず対応が遅れているのは、かなり情緒的な、人間くさい理由が立ちはだかっていると感じます」
――人間くさい理由とは。
「彼らの救済には新規立法や法改正が必要でしょう。しかし法律は条文こそ冷たくて理知的だが、実は怒りや悲しみなど、立法者の感情や欲求が原動力になっています。無戸籍・不就学児の問題は、立法を担う人たちの精神的共感性を阻むものがあるのです。親のDV(家庭内暴力)や離婚が原因の場合は、男女の好いた好かれたの性愛の問題が根っこにあるという受け止め。親の経済力のなさや無知が原因なら、もっとしっかりしろという親の責任論。不利益を被る子どものことを忘れてしまって、感情的に深く共感できないことが、法整備に踏み出せないハードルになっているのだと思います」
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――子どもの問題は親の自己責任なのでしょうか。
「誰しも他人の身になって考えるのはすごく苦手で、基本、自分を基準にして考えます。とりわけ、頑張って勉強して働いて、キャリアを築いてきた人にとっては、頑張らない人は怠け者に映る。でも、頑張りたくても頑張れない人がいるんです。生命体はすべて同じ形に作られているわけじゃない。どうしても生まれてくる時に差異が生じる。みなが完全ではないし、同じ条件下で成長していくわけじゃない。それを認めないといけない。頑張れる性格とか集中力は、自分でつかんだと思われていますが、実はそれはとても恵まれたギフトなんだという認識がない。結果として頑張れなかった人を責めてしまう」
「出生届一つ出すのにも『なんとなくできなくて』という人がいるんです。『なんで?』と思うでしょうが、怠けているんじゃありません。できないんです。親自身が子ども時代にネグレクト(育児放棄)や貧困にさらされる状況があったのかもしれない。引っ込み思案になったり世間が怖くなったりして、自分の権利をしっかり主張したり、子どもの権利を得ようとしたりすることができない人たちが確実にいます。その人たちを責めても仕方がないんです」
――親の自己責任でなければ、どうとらえればいいのでしょうか。
「国や社会の原則に戻ることです。子は国の宝であり、人は社会の礎であるということについて、政治家や立法にかかわる皆さんは『その通り』と答えるでしょう。でも実際に国の宝として子どもたちを育む態勢がとれているか。親任せにしていないか。子どもたちをみんなで大切にすべきものという共通原則を持てていない、あるいは失っているんです。子どもたちが不利益を被っているのをただ黙認しているような姿勢は、あえて厳しい言葉を使えば、国や社会が子どもをネグレクトしているに等しいと言えるのではないですか。親をみるのではなくて、みんなの子だという感覚で、しっかり法律で保護すべきだという意識の転換がとても大切です」
「無戸籍・不就学の子どもたちは、これからもっと増えます。これは児童虐待にも通じる問題です。虐待が増えているのは、虐待を減らす政策をとってないからです。児童虐待防止法ができて、児童相談所の人員を増やし、警察・病院・学校の連携を心がけるようにしていますが、それは虐待を減らそうとしているのではなくて、虐待が起きた後の対処なんです。たとえるなら、上流のダムが壊れて水があふれてきている時に、下流で土嚢(どのう)を懸命に積もうとしているようなものです。土嚢の積み方が多少悪かったり、積む人が足りず現場が疲弊したりした時に悲劇が起きる。社会やマスコミは下流での対応が悪いと非難するが、問題の根本は上流のダムの決壊を放置していることなんです」
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――社会の何が決壊しているのでしょうか。
「日本など先進国は経済を優先する形で、共助・共生社会から競争・格差肯定社会へとかじをきってきました。学校時代から能力によって分けられ、格差を付けられる。それによって人々は孤立化し、閉じ込められる。子どもたちは思春期のころから、生存できるかどうか、自己肯定できるかどうかの瀬戸際に追い詰められる。でも、誰もが競争に勝てるわけではない。自己肯定感を奪われる子どもたちがこれからますます増える社会を、政府および経済界は選択したのです。国民の半数以上もそれを是認するか、無関心の中で受け入れてきている。その前提を、私たちは改めて意識した方がいい」
「このままだと、この国は早晩、滅びの道に入っていく気がしてなりません。共助と共生を忘れた社会、自分の能力や存在を肯定できない人間を大勢生み出している社会に、どんな希望があるのか、むしろ教えてほしいくらいです。自分たちを受け入れようとしない社会に、だったら戸籍もあえて入れない、年金も税金も払わない、という人が増えても不思議ではないでしょう」
――修復するにはどうすればいいのでしょうか。
「私なりの二つの矛盾した結論を言います。一つは、各地域で小さな共助・共生社会をつくっていくこと。無戸籍だけでなく、虐待、貧困、介護、孤独死など、あらゆる問題の一つの解として、小回りのきくネットワークが必要になってくるでしょう。競争社会が人を孤立・分断化させていく方向にあるなかで、人々を結びつけていく社会を狭い範囲でつくっていく。隣近所や仲間同士で自分たちを肯定して、能力や経済力以外にも様々なあり方を認めたり受け入れたりするグループをつくる。互いにおせっかいをやけるグループをつくっていくのです」
「もう一つは、そんな人の思いやりや優しさを諦めることです。今まで人は、個人のおせっかいと優しさに頼ってきた。逆説的だが、それが本当に助けを求めている人たちに手を差しのべることを遅らせ、鈍らせている。たまたま役所にいい人がいた、たまたま付き添ってくれる弁護士がいた。そんな人が全市町村に一人ずつでもいるなら別ですが、そういう人は特別です。日本中どこでも救いの手を伸ばせるようにするには、法律で人々のおせっかいや優しさを担保しなければ無理です。たとえば役所に戸籍の相談に来る人がいたら、問題解決まで一緒に動く。おせっかいに法的根拠を与え、予算をつけるのです。法律が迎えにきてくれないと救われない人が多い。役所の現場でも、おせっかいをやきたいけどやける根拠がなくて困っている人が多いのではないですか」
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――法律を作らなければおせっかいは期待できないのですか。
「児童虐待防止法も当初は必要ないと思われていたはずなんです。虐待を疑われる子を見つけたら通報して、救うなんてことは当たり前だと思われていた。でも現実はそうではなかった。通報を義務にしないと、人はおせっかいや優しさを発揮できなかった。義務とした今でさえ、通報をためらって手遅れになるケースが次々と生まれています」
「競争・格差肯定社会ですから、自分たちだけ能力を持てば幸せを維持できると思われています。だから問題が起きた時、他人が入ってくることを面倒くさがり、自分たちだけでなんとかしようとする。人が入ってくる経験がないから、助けを求めることを想像できず、回復不能なまでに悪化させてしまう。社会、家族がどんどん閉じてきているんです。社会も家族も外へ開いていかないと、生きづらくなるばかりです。虐待が明らかになった時、なんで『助けて』って言わなかったのかと言われますが、社会が閉じてきているから、言えなくなっているんです」
「いまは短期的に見て、損をすることを嫌がる社会ですが、みんなで負担を分かち合った方が社会は長く持つのです。自分以外で困っている人がいても無関心のまま放っておけば、社会の出費がかえって増えて、いずれ自分の不利益になることに早く気づかないといけません」
(聞き手・中塚久美子)
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てんどうあらた 1960年、愛媛県生まれ。「家族狩り」で山本周五郎賞、「悼む人」で直木賞。著書は他に「永遠の仔(こ)」「歓喜の仔」など。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11344498.html?iref=comtop_pickup_01