夏目漱石が親友の俳人・正岡子規にあてた書簡が、東京都内の古書店で見つかった。1897(明治30)年8月23日付で、俳句が9句書かれており、そのうち2句が未発表だった。漱石が妻を思う心情をつづった珍しい句で、専門家は「きわめて貴重な資料だ」と評価する。
小金井市で古書店を営む蝦名則(えびなのり)さん(64)が、15年ほど前に大阪の古書店用の市場で入手、今年7月に書簡の山を整理していて漱石の署名に気づいた。国文学研究資料館の野網摩利子助教(漱石研究)や、岩波書店で漱石全集を長く担当した秋山豊さんの鑑定で真筆と判明し、未発表句が含まれていることも分かった。
漱石は当時、熊本の第五高等学校の教授。野網さんによると、書簡の前夜に東京・根岸の子規庵で句会があり、夏休みで帰京していた漱石も参加していた。書簡の俳句は鎌倉が題材で、句会から一夜明けて新作を子規に届けたとみられる。
未発表の句は、「愚妻病気 心元(こころもと)なき故本日又(また)鎌倉に赴く」という前書きに続き、「京に二日また鎌倉の秋を憶(おも)ふ」。 前年に結婚した妻鏡子は体調を崩し、この夏を鎌倉の別荘で療養していた。病身の妻を思いながら、東京から鎌倉に向かう心情を詠んでいる。野網さんは「病気 の妻を見舞う漱石の思いがはっきりと込められている。親友だから吐露した心境だろう」と受け止める。
未発表のもう1句は「円覚寺にて」の前書きがついて、「禅寺や只(ただ)秋立つと聞くからに」。円覚寺はのちの長編「門」に登場する。子規はこの年5月に病状が悪化。俳人の長谷川櫂さんは「漱石は俳句を送ることで子規を慰めていたのだと思う。明治らしい、友情の手紙」という。
漱石と子規は東大予備門で出会い、友情を結んだ。漱石は子規から俳句の教えを受け、留学中も英国から子規に俳句を送っていた。生涯に約2400の俳句を残したという。
(中村真理子)
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