◇寺田寅彦の警句で読み解く
今年の防災の日(9月1日)は関東大震災から90年の節目にあたる。「防災」という言葉の生みの親といわれる地球物理学者で随筆家の寺田寅彦(1878~1935)は大震災を経験し、「天災と国防」などの書物で地震に関する文章を残したほか、言葉として伝えた。その言葉は色あせないどころか、東日本大震災を経験した現代に向けられたものかと思えるほどだ。寺田の言葉をキーワードに現代の防災を考える。
岩手県大船渡市の最北端に位置する吉浜(よしはま)集落(旧吉浜村)。砂浜の防潮堤は壊れ、湾に流れ込む川に架かっていた橋の残骸に津波の痕跡をとどめる。だが砂浜から見上げると、海岸線と並行に走る県道付近を境に高台側にある住宅地は、ほぼ無傷だったことが見て取れる。
「昔の人が時を超えて私たちを守ってくれたと考えるとうれしい」。市立吉浜中学校3年の見世穂波(みせほなみ)さん(14)は笑顔を見せる。全校生徒32人で今、取り組んでいることがある。津波と向き合ってきた吉浜の歴史を演劇にすることだ。
地元郷土史家によると、吉浜の中心の本郷地区では明治三陸津波(1896年)で住民の2割弱にあたる約190人が犠牲になった。当時の村長の先導で海沿いから高台へ全戸移転を目指したが、一部は中間地帯などに残った。昭和三陸津波(1933年)では17人が犠牲になり、移転が進んで高台集落は大きくなった。
三陸の他地域でも高台移転は行われたが、防潮堤整備が進むなどして平野部に戻った集落が多かった。適当な高台を見つけられなかった集落もあった。その中で吉浜は高台にとどまり続け、今回犠牲になったのは住民約1500人のうち1人だけ。「奇跡の集落」とも称される。
震災後も、津波にのまれた平野部の農地復興を検討する集落の委員会で「遊休地のままにしておくと家を建てる者がいるから危険だ」との意見が出るなど、先人の教訓を守ろうとする意識は高い。
「天災は忘れた頃にやってくる」
吉浜と他地域の物語は、寺田寅彦が残したとされるこの言葉を思い起こさせる。人間は時間の経過とともに大きな災害でも忘れてしまうという意味や、大きな自然災害は数十年から数百年に1回という周期で来るという意味で使われる。
しかし、矢守克也・京都大防災研究所巨大災害研究センター教授は「『忘れる』とは、誰かに任せておけばそれで安心と考えてしまうことではないか」と指摘する。「『堤防ができたからもう安心』『防災のことは専門家に任せたから安心』などと考えることへの警鐘ではないか。私は『災害は安心した頃にやってくる』と言い換えるのが適切だと思う」
吉浜中の村上洋子校長(55)は昨年4月に赴任した。隣の陸前高田市にあった自宅は津波に流された。赴任時に吉浜の人たちから「うちはあまり被害が無くて何だか申し訳ない」と声をかけられ、驚いた。「違う。これは誇るべき事だ」。今年10月の文化祭に住民も呼び、演劇を披露することを生徒に提案した。
今はまだシナリオを練っている段階だが、3年の東玲人(あずまあきと)君(14)は来年以降も見据える。「後輩に伝統行事にしていってほしい。そうすれば地域の人々が時間がたっても震災を忘れず『もう安心』とは思わない」
◇寺田寅彦
東京生まれ。少年時代を高知で過ごし、旧制高校時代に夏目漱石から英語を学んだ。東京帝国大学を卒業後、航空研究所、地震研究所などに在籍。地震、火災など災害の根本原理を追究した。関東大震災に遭遇し、調査も行っている。
◇関東大震災
1923年9月1日午前11時58分に発生した。地震の規模を示すマグニチュードは7.9、死者・行方不明者は約10万5000人。死者の大半は火災による焼死だった。千葉、静岡県は津波にも襲われた。
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20130829k0000m040155000c.html