【話の肖像画】僧侶・庭園デザイナー 枡野俊明さん(60)
〈庭園づくりに興味を持ったのは小学校5、6年のころ。京都でいくつかの禅寺を拝観したのがきっかけだ〉
カルチャーショックでした。こんなにきれいな庭があるのかと。生まれ育った建功寺の雑然とした庭がすべてだったので…。
それから、当時購読していた週刊誌の白黒写真をパラフィン紙でトレースし始めました。そんなことしている子供はいないですよね。中学2年時の担任に「和尚(あだ名)は変わってるなぁ。おれが通った大学に行くといいよ」って言われました。当時、庭園デザインが勉強できるところは多くなかった。それで玉川大学農学部に進んだんです。
〈造園家・斉藤勝雄氏(1893~1987年)と出会い、庭園への興味を深める〉
高校生のころ、うち(建功寺)の庭が整備されることになったんです。私も穴を掘ったり、石を動かしたりして手伝いました。図面を持った斉藤先生が指示するたびに、どんどん庭が変わっていくんです。面白いなあ、自分もやってみたいと。
庭園デザインは、単なる図面指示ではありません。石心(いしごころ)を読むといいますが、どの石にも天と地、顔と裏があります。石の顔をみつめ、その庭の空間にバランスよく配置していきます。工事中に、「もうちょっとこうしたほうがいい」と思うときがあります。コストがかかる場合もありますが、もっとよくなるとの自信があるので、やり直します。
「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」といって、最も大事なことは文字や言葉で表せるものではないと禅は教えます。たとえば弓道を教えるとき、「いっぱいまで引いて、放す」と言葉で説明するより、実際に引かせて、的に当てた感覚を体にしみ込ませた方がいい。感覚は教えられても、細かいところまでは教えられないんです。
いま、多摩美術大学で環境デザインを指導していますが、学生は最初からCAD(コンピューター利用設計システム)で設計図を書こうとする。まずは手作業で頭の中にある考えをデザインすることが必要です。最初からCADを使うと、CADでできる範囲で作るから、みんな同じものしかできない。日本人でなければ作れないもの、コンマ何ミリの精緻さが特徴の中小企業のモノづくりでも同じではないでしょうか。機械に頼り切らない手作業は、もっと大事にされなくてはいけません。
鎌倉、室町時代の禅僧は、会得した心の状態を禅芸術に置き換えてきました。雪舟ら絵を描くことが得意な僧侶は画僧、文学で表現しようとした者は五山僧。庭園では夢窓疎石(むそうそせき)が会所(えしょ)と呼ばれるサロンに集まり活動しました。そこに年中戦いをしている武士が「生きるとはどういうことか」の教えを乞いにきて、しだいに禅芸術そのものを生活に取り入れたいとして発展しました。尊敬する夢窓国師に近づけるよう、精進を重ねているわけです。(聞き手 伊藤洋一)
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/medical/snk20130720561.html