安倍晋三首相による環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉参加表明を受けて、農業の抜本改革が急務となるなか、農家でも政治の場でも生き残りを目指した模索が始まっている。国際競争にも耐えうる強い農業への転換に向けた動きを探った。(水内茂幸)
雪に覆われた水田が広がる新潟県小千谷市。日本を代表するコメである魚沼産コシヒカリの産地だ。ここで農業生産法人「農園ビギン」を経営する南雲信幸氏(57)は、3月15日のTPP交渉参加を表明する首相の記者会見をみて、しみじみと感じた。「農家が生活保護のように補助金を受け取る時代は終わった」。
魚沼産コシヒカリの取引価格(1月現在)は60キロ当たり2万4257円と、農林水産省が継続的に調査する全国44銘柄中、唯一2万円を超える。そんな小千谷でも、南雲氏は「このままなら小千谷のコメは壊滅する」と危機感を持つ。市内の農業従事者のうち、72%が65歳以上(農水省調べ)だからだ。TPPで米価が壊れれば、就農者がさらに少なくなる可能性もある。ただ、南雲氏はTPPを悲観的ばかりには捉えない。
「農園ビギン」は現在25ヘクタールの水田を耕す。南雲氏の所有地はわずかで、大半は後継者のいない農家など38軒から借りた土地だ。「どのタイミングで農地を手放せば高い補助金がもらえるか、値踏みする農家すらいる。TPP対策の補助金を将来ビジョンのある農家に絞れば、大規模化も進むのでないか」。ビギンは冬場の収入源として、平成22年に「さつまいもプリン」の工場を建てた。発案は東京から8年前に就農した新谷梨恵子氏(35)。豊かな風味が評判を呼び、東京・表参道にも販路を拡大した。
7人の従業員を抱え、平均年齢は29歳。南雲氏は「人が増えるたびに自分の年収は下がる」と笑う。ただ若い人を引きつけることが、小千谷の田園風景を守る道と確信している。「この土地を守る若者を育てるのが俺の仕事」。県内にはコシヒカリの海外販路を切り開いた若い農家もいる。新潟市で農業生産法人「新潟玉木農園」を営む玉木修氏(33)は今年、新潟コシヒカリ「玉木米」など250トンを台湾と豪州に輸出する。
玉木氏が10キロのコメを手に台北入りしたのは8年前。苦難の連続だった。キロ当たり1300円程度の玉木米に対し、店先の米カリフォルニア米は同400円と勝負にならない。3年かけ硬水でもおいしく炊けるコシヒカリを開発した。そんな玉木氏にとって、TPPで揺れる今の日本の農業はどう映るのか。「農家は例年通りの春だ。『どうせコメは関税撤廃の例外』と思っている。安易な輸出拡大論もどうか。真剣味が足りない」。
玉木氏が「卒業した」という農協は、TPP交渉参加断固反対を掲げてきた。玉木氏のような農家には農協は直接必要ないが、兼業農家にとっては生産機材を提供し、一括販売してくれる農協なくして農業はできないといってもいい。農協にとっては、米価を高くし続けてきた生産調整(減反)の廃止や縮小は経営を直撃する。このため農協は減反維持のため政治にも関与し続けてきた。農協は「かつてのような力はないものの、候補者を落選させる力は持っている」(自民党閣僚経験者)と言われる。だが、選挙で農協の力を当てにする自民党の農林族の幹部からも、減反政策を見直すべきだとの声が出てきている。
自民党の農林族幹部で、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)対策委員長を務める西川公也氏は、平成21年冬、東京・市谷の飲食店での激論が忘れられない。テーブルの向かいにいたのは農林水産相だった石破茂氏(現幹事長)だった。石破氏はコメの生産調整(減反)の参加を農家に委ねる『選択減反制』を提唱していた。全国一律減反・保護一辺倒の農政から、補助金なしでも戦えるコメ農家の背中を押そうとした。
「農家の所得に責任を持てるのか」。西川氏は面と向かって石破氏を批判した。農協の支持を受けた族議員は米価維持に奔走し、見返りに農民票をもらう「農政のトライアングル」が自民党政権の屋台骨を支えていた。「一粒たりとも輸入させない」という農林族議員の要望は、778%の高関税に生かされた。そんな守りの姿勢に、石破氏は「高関税と補助金で守っても、農地と農業者の所得は減り続け、高齢化は止まらず、後継者は減少の一途をたどる」と疑問を持っていたのだ。最終的に選択制は「農水省案」から単なる「石破案」となり、断念に追い込まれた。
TPP対策委員長となり、交渉参加に向けた党内の取りまとめに当たった今、西川氏は自問する。「われわれの取った行動は合っていたのか。今や日本の耕作放棄地は埼玉県の面積と等しい約40万ヘクタール。高齢化も止まらないのは、これまでの農政に間違いがあったからではないか」。西川氏は3月28日、党の農林族との幹部会合で「お腹立ちの方もいるでしょうが」と切り出した。「縮小生産に向かった40年前は正しかったのか。この際改革しましょう」
西川氏は減反を全てやめた場合の米価の予測や、減反を廃止した場合に必要な補助金額などを計算する方針を明言した。都道府県ごとに、5年後の農業者の平均年齢や生産量の減少予測を出す意向も示した。石破氏は西川氏の決意を伝えられると、「実は減反をやめた場合のシミュレーションがある」と切り出した。自民党が衆院選で大敗した21年夏、選挙から民主党に政権を明け渡すまでの16日間に、石破氏は数パターンの想定書を書き上げ、後継となった赤松広隆氏に手渡していたのだ。
幹事長となって党をまとめる立場となった石破氏はTPP交渉参加を機に、農業政策の改革に正面から取り組もうとしている。減反の廃止や縮小をめぐっては、農協との間で対立を生むことになるが、石破氏は「どの農民層を守るのかという議論を突き詰めると選挙の票は減ってしまう。ただ、小農家が農機具の投資なく地代を手に入れ、農地を集める大農家のコストダウンを図れれば、票は本当に減るだろうか」と問いかける。
その上で、「単に減反見直しを語るだけでなく、国を挙げて輸出拡大の知恵も出すべきだ。本来マーケティングくらい国がやるべきだ」として、今こそ、農地の集積を進め、コストダウンと海外輸出の進展を図るべきだと強調する。新潟県小千谷市の谷井(やつい)靖夫市長(75)の楽しみは里山へのハイキングだ。大手家電の旧三洋電機で、半導体を世界に売り歩いた谷井氏は定年退職後、市長に担ぎ出された。
「山から市内を見下ろすと、うねる信濃川沿いに一面の田んぼが広がる。春先になれば水を張った田んぼが鏡のようにキラキラ光り、秋は全面が黄金色に染まる。ため息が出るほど素晴らしいんですよ」。農地集積に補助金を出し農業の大規模化を後押ししてきた谷井氏は、今はまだ雪に覆われた田んぼを見ながら決意を新たにするのだった。「農業を強くする知恵を出したい」
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