住民安全:小川です。
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もしかしたらという気持ちと、駄目だろうなぁという気持ちが入り混じった 、起きたくても起きる勇気の湧かなかった朝を迎えた。
私の目覚まし時計は、試合終了の時間に鳴るようにセットされていた。なぜなら、見る勇気がなかったから。
私自身がサッカー女子日本代表の試合をはじめてみたのはいつのことだっただろうか?正確には覚えていないが、キリンカップで男子A代表(男子とつけるのが何とも不思議な違和感)に森島や中田が入ってきたころだと思う。前園もいたかなぁ~~うるおぼえ。しかも、キリンカップの前座試合だったと思う。日中の日差しが突き刺さるようなピーカンな暑い日の国立競技場だった。選手の顔なんて日差しの強さが黒い影をつくって何も見えない。対戦相手はスウェーデンかどっかだと思う。
細かいことはすべて忘れてしまったが、はっきり覚えていたことがひとつだけある。それは、
「これでは世界で飛べない」と感じたことを。。
あれから15年くらいが過ぎただろうか。
日本代表の試合のたびに仕事を休んででも国立に駆けつけていた私は、テレビの前の住人。 走り続けてきた選手たちとは対照的に地べたに釘を突き刺して自分の足を縛り付けてしまっている。そう、飛べないていないのは私だった。
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朝、お父さんの歓喜の声で目が覚めた!普段サッカーなどみない父が朝から小さな握りこぶしを作り、2階まで聞こえる声で喜びをあらわしていた。朝5時過ぎのことだった。きっと、後半に同点に追いついたときだったんだろう。このときでも、私の心は後ろ向きだった。それは、私自身の勝手なトラウマが作り出したマイナス行動だった。1999年、U20ナイジェリアワールドカップ。累積カードでチームの精神的な柱である小野を欠いて望んだ決勝。スペインに惨敗。このとき、テレビで観戦していた私は『日本は世界であと50年は勝てない』と激しく打ちのめされた。あの日以来、サッカーワールドカップで日本代表が優勝することをイメージできなくなっていた。その後にすべての国際大会で日本代表の勝利を信じれないトラウマはここから始まる。
朝、目が覚めて、すぐさまテレビに噛付く父を横目に家をでた。そして、オフィスに向った。通常なら試合が終わる時間だった。そして、オフィスに着く。いくらなんでも早すぎる早朝出勤。
結果だけでもと思い、オフィスのパソコンに電源をいれる。
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その瞬間。
ズドドンとゴールに突き刺さるシュート。
以前のVTRか?と思って、やっぱり駄目だったかぁ~~と思った私に飛び込んできた画面に流れる文字にその場で立ち尽くしたまま、息をするのも忘れるほどの衝撃が背中に流れる汗を凍らせる。 『日本勝利』。その言葉が意味するものをすぐには理解できない。そして、少し前までは日本の女子トップアスリートには可愛い子がいないという言葉の代名詞のようだった沢のインタビューがはじまる。
よくよく見ると、地元アルビレックスレディースの「上尾野辺」「阪口夢穂」も笑っている。
そして、感じた。
人の歴史の中に絶対などという言葉はない。諦めないことがどんな壁でもこじ開ける力を持つということを
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東日本大震災から4ヶ月。
この国には積もり続ける心の闇の連鎖と向かい合うための勇気が必要だった。そして、心に光を灯す話題が必要だった。しかも、世界をうならせるような飛び切りの神々しく輝く黄金の話題が必要だった。そして、日本人としての誇りとプライドを思い出す必要があった。
ありがとう。そして、お疲れ様。無事に帰ってきてねぇ。
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追伸
オフィスのあるシビックコアで最近夕方になるとサッカーの練習をしている女子中学生か女子高生がいる。日曜日には炎天下の中、サッカーをしている小学生たちがいる。大きな声では言えないが、夜な夜なサッカーの練習をしている大人たちもいる。私はこっそり、シビックコアは街中のサッカーグランドのように思える今日この頃のである。
最後に、
大地に突き刺したままの釘を無理やり引っ張りぬくために自分自身の原動力になればと思い新しい企画を打ちさしてみた。それは、『時代を歩く勉強会』と『長岡市民放射線測定会』である。NPO法人のスタッフとして、自分の能力を使って何か新しい取り組みにチャレンジすることの大切さと諦めない気持ちをなでしこ女子から教わった朝だった。
詳しくは
>> 『時代を歩く勉強会』
>> 『長岡市民放射線測定会』
アンケートへの協力願い
『時代を歩く勉強会』へのアンケートです。
>> http://enq-maker.com/7bM9Bue
回答についてはこちらでご覧になれます。
>> http://enq-maker.com/result/7bM9Bue