◇福島県南相馬市から新潟市へ 杉浦貴子さん一家
「お帰りなさい」。6月中旬のある日の午後、新潟市西区の企業社宅で避難生活を送る杉浦貴子さん(41)は、福島県内の避難所で2週間、整体のボランティアをしてきた夫の誠司さん(40)を出迎えた。「無事に帰ってきてくれてよかった」。間もなくして、市内の小学校に通う一人娘の日菜ちゃん(6)が帰ってきた。久しぶりの家族3人での食事。誠司さんに抱きつく日菜ちゃんの姿に、心が安らぐのを感じた。
杉浦さん一家は、福島第1原発から20キロ圏内の福島県南相馬市小高区に暮らしていた。原発事故後、一家3人で車中泊などをしながら新潟市西区の避難所にたどり着いた。
放射能の子どもへの影響を恐れて避難したものの、新潟での子育ては戸惑うことも多かった。2次避難先も定まらない中で入学シーズンを迎え、日菜ちゃんが避難所近くの小学校に入学。慌ただしい中で迎えた入学式で、カメラもなく、携帯電話で記念撮影をした。
5月下旬の運動会では、全校児童約720人と保護者、教員らがグラウンドに集まった。その人数の多さに圧倒された。地元の小学校は1学年1クラスだからだ。しばらくすると、日菜ちゃんは「学校に行きたくない」とごねたり、「迎えに来て」と甘えるようになった。貴子さんが「学校が嫌なの?」と尋ねても「学校は楽しいけど」と答えるだけだ。人見知りもするようになった。「環境が変わってストレスを感じているのかもしれない」と懸念する。
経済的な負担も重くのしかかった。貴子さんが勤めていた老人福祉施設、誠司さんが営んでいた整体院はともに原発から20キロ圏内。夫婦そろって収入源を失った。4月中旬に家賃が無料の企業社宅に移ったが、貯金を取り崩す日々。現在は支払いを猶予されているが住宅ローンも10年以上残る。月5000円の駐車場代すら払うのをためらった。食費を浮かせようと、配給の食事をもらうため今も毎日、避難所に通う。
6月上旬、誠司さんから「福島県の避難所を回りたい」と相談を受けた。誠司さんは整体の仕事を探していたが、条件に合うものは見つからなかった。「もう10年分は休んだ気分だ。自分にできることを探しに行きたい」。夫の思い悩む姿を見てきた貴子さんは「やっと行くんだね」と背中を押した。
誠司さんがいない間、娘は今まで以上に甘えるようになった。そばにいてほしいと思うこともあったが、夫の気持ちを考えると、戻ってきてほしいとは言えなかった。
貴子さんを支えるのは、被災直後の体験だ。日菜ちゃんのいる海岸近くの幼稚園とも、誠司さんとも連絡が取れなかった。夕方になって再会し、娘を抱きしめたとき、「もう二度と離さない。怖い思いはさせない」と誓った。誠司さんは近く、再び福島へ出発する予定だ。「待っている患者さんがいるんだ」と話す誠司さん。不安は尽きないが、貴子さんは笑顔で送り出すつもりでいる。「この子を守らなきゃって思いが、前を向かせてくれるんです」【塚本恒】=つづく
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