[ カテゴリー:社会 ]

【被災地レポート】震災で問われた「事業の継続」、すばやい動きが会社を支えた

【仙台発】東日本大震災の日、仙台のITベンダーは、事業の継続に向けてどのような対応をしたのか――。市内に本社を置くITベンダー、トライポッドワークスの佐々木賢一社長に、震災直後から正常営業に至るまで聞いた。また、佐々木社長に帯同し、津波で大きな被害を受けた宮城県沿岸部を訪れた。

【写真入り記事】

●納期を守るために自ら物流ルートを確保

トライポッドワークスは、2005年11月に佐々木社長が設立した新興ITベンダーだ。UTM(統合型脅威管理ソリューション)やファイル送信・共有ができるオンラインストレージ製品などを、販売パートナーを介して、主に首都圏を中心とした企業に販売している。ふだんだと、火曜日から金曜日までを東京での営業活動にあてている佐々木社長だが、震災の日は“運よく”仙台本社にいた。「当社の増資が決まって、出資者のベンチャーキャピタルに説明するため、たまたま市内にいた」(佐々木社長)。このことがのちのち同社を救うことになるとは、この時点では思いもしなかったという。

マグニチュード9.0の地震が起きた3月11日午後2時46分、同社の事務所は大きく揺れた。長く続く揺れのなかで、最初はパソコンやプリンタなど机の上のモノが床に落ち、1分後には棚が倒れた。揺れが収まると、佐々木社長は社外に出ている社員の安否確認を始めた。時間を要するかと思われた作業だったが、ソーシャルメディアなどを駆使して、ほどなく全社員の無事が確認できた。

これほどの震災を経験するのが初めてなら、ここからどうやって事業を継続していくのかの判断もまた、未知の世界だ。佐々木社長の初動は、まずパートナーやユーザー企業への情報発信だった。札幌市の事務所にいる技術者に連絡し、自社ホームページへの告知掲載を命じた。内容は、従業員の家族の手当てを優先して「本日は営業を終了した」ということと、社員全員が無事であること、3月14日に営業を再開すること。アップ作業を終えたのは、地震の約3時間後、午後6時という速さだった。同時に仙台本社では、社員が事務所の片づけを続けた。

震災の日、夕方まで佐々木社長の頭を占めていたのは、「製品をしっかり東京に届けられるのか」(佐々木社長)という不安だった。同社には毎日のように製品オーダーが届き、受注後3日以内にユーザー企業に届けている。佐々木社長は、この「納期を守る」ということが新興メーカーの生命線であるという信念を大事にしてきた。それだけに、徐々に伝わる惨状から、佐々木社長の脳裏には「物流網が寸断され、製品が届けられない」という悪夢がよぎった。そして、「納期を守れなければ生き残れない」と考え、即座に行動した。

調べると、いつも使っている物流ルートは完全に不通になっていた。通常使う宅配便もだめ。新幹線も高速道路も寸断されている――。さまざまな手段で情報を収集するなかで、新潟の宅配業者まで製品を運べば、東京まで届けられることがわかった。しかし、その新潟までどう運ぶか……。そんなとき、取引のある山形市の組込み製品開発の山形ハイテックシステム・土屋浩社長から、「うちのクルマが新潟に行く」との一報が入った。「山形まで運べばなんとかなる。あとは新潟まで運んでもらおう」。

このとき抱えていたバックオーダーは18台。「とにかく、これをジャストインタイムで届けたい」と佐々木社長は考えた。“緊急物流担当”に選ばれたのは、山形県出身の社員。土地勘があって、寸断された道をうまくたどって、山形市まで行けるはずだ。ガソリンは満タンに近い――。見切り発車ではあったが、この作戦は成功し、無事、期限通りの納品にこぎつけた。

しかし、製品オーダーが途絶えることはない。東京の事務所は営業拠点で、そこではセットアップ作業などができない。やはり新潟まで、自前のルートを確保しなければならない。幸いにして、先の“緊急物流担当”の山形県出身の社員は、新潟の大学を出ていた。しかも、新潟県には実姉が住んでいて、交通事情によっては直接仙台に戻らなくてもいい。社員のクルマに製品を積み込みで、今度は新潟へ直接運んだ。そしてこの方法で、2日間で120台ほどの製品を東京に搬送することができたのである。佐々木社長は「震災のときとはいえ、本当に幸運が重なった」と振り返る。

震災後、あわただしい業務復旧作業は3月16日に終息。その日、佐々木社長は全社員を集め、こう告げた。「最大の経営危機を乗り切ることができた。ありがとう」。その後数週間は、午前と午後のどちらかに出社する二直体制を敷き、社員の家族対応を優先させた。このとき、停電の影響で金融機関がストップしている可能性があったため、佐々木社長は当面の生活費として社員に現金10万円を渡している。

業務が落ち着いてくると、佐々木社長や社員は、僚友である市内のITベンダーを巡回し、「手伝えることはないか」と声をかけ始めた。ある程度巡回した時点で判断は、「実害はそれほどではない。むしろ風評被害が怖い」。そこで仙台のIT業界の復興状況を全国に知らせるために、Facebookファンページ「仙台のIT企業ファンページ」を立ち上げた。東北地方のITベンダーの多くは、首都圏をはじめとする大都市圏から収益を得ている。「仙台のITベンダーは稼働していない」との風評が広がれば、営業に影響が出て、復旧・復興どころか事業継続ができなくなってしまうのだ。

佐々木社長は「これまで築いてきた信頼関係を壊したくなかった。そのために必死に対応した。マニュアルなんてない。偶然や幸運が重なっただけ」と、震災への対応を振り返る。仙台市内のITベンダーは、設備が破損するなど、物理的被害が多少あった程度。今度は、復旧・復興と自社の事業継続に向けて試練の道が続く。佐々木社長の行ったような震災への対応は、どのITベンダーも大なり小なり経験したことだろう。こうした経験が他の地域のITベンダーにも継承されるよう、記録はしっかりと残しておきたい。

●IT業界に望まれる情報の受発信への支援

4月14日、インタビューの後、佐々木社長のクルマで、津波の被害が甚大だった沿岸部へと向かった。最初に行った場所は、仙台市若林区の沿岸部。そこで見たものは、テレビで見たそれとは様相が異なる。仙台市中心部の実害は小さかったが、ここでは風景が一変する。海から1~2Kmの高速道路までの間は、家屋や公共施設など、すべての建物が破壊されている。被害の深刻さを改めて知った。自衛隊などの救援隊はいるが、まばら。被害がさらに甚大な地域から救援が進んでいるからか、ここにはまだ手が届いていない印象だ。

次に向かったのが、仙台市から車で1時間弱の石巻市だ。風景は、若林区のそれから一変する。石巻市の沿岸部は工業地帯で、漁港もある。海から1~2Kmは家屋が並ぶが、工業地帯の海から流出した異物が住宅地に流れ着き、家屋自体の損傷も激しい。何より、異臭がきつい。魚の臭いを数倍にして、石油などと海のヘドロが混ざったような臭い。否応なしにツーンと鼻を突き刺す感じで、息をすることができないほどだ。

石巻市をあとにしたわれわれは、テレビなどで報道されることの少ない雄勝半島の町々を回った。原子力発電所を抱える女川町では、標高20m程度の小高い丘にある病院の目の前まで波が来ていたことがわかる。クルマや家がビルの屋上に打ち上げられ、鉄筋コンクリートのビル数棟が波の勢いで横倒しになっていた。

西に向かうほど被害は大きくなる。最後に、壊滅が伝えられた南三陸町へ。南三陸町では、ほぼ全域に津波が押し寄せた痕跡があった。被害は町内全家屋の7割に及んでいるという。夕方の炊き出しが終わった頃、二つの避難所を回った。志津川小学校では、自治会の若き副会長と話ができた。聞けば、小高い丘に建つベイサイドアリーナという公共施設で、ボランティア団体がホームページなどを立ち上げ、近くの避難所で必要な物資などの情報を全国に発信しているという。こうした情報の受発信作業こそ、ボランティア団体に加えて、ITベンダー関係者が担えないものか。IT業界がいますぐにできること、すべきことを身近にみた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110415-00000005-bcn-sci

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