住民安全ネットワーク事件簿と称しまして、たまに発言させていただいている事務局の小川誠です。
今回は、「住民安全ネットワークジャパン」の震災1ヶ月を数回にわたり振り返りたいと思います。
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3月11日15時くらい。オフィスに長机に向かってニュースサイトの掲載作業をしていまいした。そのときです。お尻のセンサーが何か地面を大きく揺するような違和感を感じたのです。その瞬間振り向いて笠井さんと交わした会話を今も忘れません。
「笠井さん、地震じゃない。それもかなり大きい。やばいレベルを超えているんじゃない。」
この瞬間から日本人すべての人の中に長く記憶に残るだろう重い重い1ヶ月のスタートとなりました。
揺れている最中にインターネットに流れた情報は、当初会津地方での地震ということでした。そのために早期に住民安全ネットワークからのメール受信をされた方は「会津で地震」と伝わったかもしれません。地震発生から10分たっても気象庁の正式発表はなかったと記憶しています。さらに、この時期、住民安全ネットワークのサーバー移転に伴いメールシステム事態にも不安要素が重なり、メールを最終的に受信した方がどのタイミングでこのメールを受信できたのか今もよくわかっていない状況でした。
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いつかは、起こりうると予想された大震災だったかもしれません。しかし、どこかで緊張感がかけていたのかもしません。こんな中で、住民安全では秒単位で更新され続けるニュースサイトの情報の掲載作業を強化、同時に最新情報を可能なかぎり携帯サイトにアップし続ける作業を、震災直後より丸5日間、24時間体制で続けていました。震災の規模が徐々に明らかになっていく中、原発災害の煮え切らない情報との格闘、さらに計画停電における東北電力の不確定な情報にまさに振り回され続ける状況だったのです。
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今に思えば、あのとき、このときの判断がすべて冷静で正しい判断だったとは言えません。しかし、精一杯駆け抜けたという気持ちです。
その後、「東日本大震災ボランティアバックアップセンター」「長岡災害支援ボランティアセンター」の立ち上げで、住民安全ネットワークが果たした役割について、次の機会にお知らせしようと思います。