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そもそも「障害者差別」って何なんだ? - 「障害者週間」によせて

12月3日より9日までの7日間は、内閣府が定めた2016年の「障害者週間」です。

障害者週間の趣旨は、内閣府により、以下のように説明されています。

 

障害者施策の基本的方向を定める「障害者基本計画」(平成14年12月24日閣議決定)においては、我が国が目指すべき社会として、国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「共生社会」を掲げています。このような「共生社会」は、国民一人一人がそれぞれの役割と責任を自覚し、主体的に取り組むことによりはじめて実現できるものです。

(略)

 

出典:内閣府サイト:障害者週間とは

本記事では、

「では、障害者差別とは何なのか?」

を、ご一緒に考えてみたいと思います。

私見ですが、日本の障害者の置かれている状況は、まだ「共生」を近未来の目標とできる段階には程遠く、差別をなくすことに最優先で取り組むべき状況にあると考えています。

「共生」の妨げになっている「差別」

「共生社会」のための取り組みは重要なのですが、それ以上に重要なのは、差別そのものを「ないこと」にせず実情を明らかにし、正面から取り組み、なくしていくことです。

「基本、障害者差別はあんまりない。時々、インシデント的に変な人がやらかすことはあるけど」

という段階になって初めて目指せるのが「共生」ではないでしょうか?

「共生」を最も妨げるものは、差別です。

共生のためには、まず最大の阻害要因である差別をなくすことに取り組む必要があります。

思い起こしていただきたいのは、子どもの虐待問題です。

子どもの虐待を可視化しやすく対策しやすくするために有効だったのは、「愛しましょう」ではなく「虐待は悪だ」ではなかったでしょうか? いまだ、充分ではありませんけれども。

障害者に対しても、「仲良くしましょう」「一緒にやりましょう」よりも「傷つけるな」「痛めつけるな」、つまり「差別するな」が優先されるはずです。

では、何が「障害者差別」なのでしょうか?

単純明快な「障害者差別」

障害者差別を一言で言い表すと

健常者と障害者に異なる扱いをすることは、障害者差別(ただし合理的配慮を除く)。

以上、です。

健常者にしないことを障害者にしたら、あるいは健常者にすることを障害者にしなかったら、障害者差別なんです。

たとえば、日常的かつ些細、しかし「あるある」で言えば

「同年齢・他の条件が同等の集まりで、健常者には敬語を使って『さん』、でも障害者に対してだけタメ語を使って『ちゃん』づけで呼ぶ」

は、障害者差別です。

まずは、こういう明確な差別に対して「したら恥ずかしい」を日本の常識にする必要があるのではないでしょうか。

「同じ場に健常者と障害者がいるときに、違う扱いをしないように心がける」

だけで実現できる「差別を減らす」は、そんなに難しいことでしょうか?

もちろん、それでも

「相手はニコニコ振舞っているけど、実のところ差別と感じて内心ムカついている」

はありえます。

このための対策は、障害者に「それは不愉快だからやめてほしい」と言われたら素直に耳を傾けること、障害者がそういう言挙げをしやすいように配慮すること、言挙げをした障害者が「悪い障害者」とされ「良い障害者」と分断されないようにすること、でしかありません。こちらは「差別を減らす」に比べると難しいかと思いますが、場面や時期を限定して実現することは、そんなに困難でもないだろうと思います。よい実践や経験者が増えれば、状況は少しずつでも変わっていくでしょう。

というわけで、私は「日本から障害者差別がなくなる」の実現可能性については、そんなに悲観していません。

現在51歳の私は、あと50年くらいは生き、100歳くらいまでは車椅子の上で元気に執筆活動を続けるつもりでいます。

それだけ生きれば、生きている間には実現の片鱗を見ることができるかもしれません。

「合理的配慮」って、なんだ?

では、さきほどの

健常者と障害者に異なる扱いをすることは、障害者差別(ただし合理的配慮を除く)

の「合理的配慮」とは何でしょうか?

たとえば職場ならば

「聴覚障害の同僚がいる職場では、伝達事項は全部文字化するルールとする」

「車椅子の同僚がいる職場では、車椅子の動線を確保し、本人が必要とするものは本人の手の届くところに置く」

といったことが、合理的配慮にあたります。

「仕事をする」にあたっての前提条件を健常者の同僚と同等にする、ということです。

本当は、職場の配慮だけでは充分に「同等」とはならず、本人の地域生活・家庭生活も含めて「暮らせる」が必要です。

しかしながら、職場に何の配慮もなければ障害者が仕事にならないのは明らかです。

「合理的配慮」の成否を分けるキモは、「障害者が不当にも特別扱いされている!」と周辺の健常者が感じるかどうか、にあります。

「障害のある同僚のために」するという発想なら、どうしても「逆差別!」という反応を引き起こすでしょうね。

ここは「障害のある同僚を含む職場という部分社会全体の状況をよくするための環境などの調整」と考える必要があります。

たとえば、伝達事項が全部文字化されれば、「言った・言わない」のトラブルは減らせます。

車椅子の動線を確保するついでに、職場のレイアウトや職場に置いておく書類等を見直し、共用書類棚の前にちょっとしたコーヒーテーブルでも設置して、全員が気持よく仕事できる環境を作るなどすることも可能でしょう。

その職場の部分社会全体が、障害のある同僚も含めて、より良いものに調整されるプロセス、調整された結果、より良くしていくプロセスが続いていくことこそが、「合理的配慮」のありつづける状態なのです。

この状況で「逆差別!」という声は上がらないでしょう。

職場だけでは足りない「合理的配慮」

「合理的配慮」は、職場だけではなく、「生きる」「暮らす」のあらゆる場面に必要です。

就労して収入を得るとヘルパー派遣を受けるために支出が必要になり「働かない方がマシ?」となったり、そもそも公的障害者福祉制度の数々は、原則、通学・就労・営業には利用できないことになっていたりします(独自に認めている自治体もありますが)。

「入浴する」「身だしなみを整える」といったことのために、どうしても必要なヘルパー派遣ですが、費用以外にも利用条件の制約(「居宅介護」である以上は家の中だけでしかダメ、とか)があったりします。

私自身も「生きる」「暮らす」が可能になるまで、行政とずいぶん交渉する必要がありました。「使いやすくすると、障害者はいくらでもゼイタクに使うから」というのが行政側の主張でした。まあ、たまにそういう障害者がいないわけではない、ということは私も認めますが、不足に困っている障害者の方が圧倒的に多いです。

「これを解消しないで、障害者に『福祉から就労へ』って、なんだよ?!」

という思いが、私にもあります。

しかしながら、その話をすると長くなるので、今回はやめておきます。

障害者の「ありがた迷惑!」と「合理的配慮」の関係は?

障害者がしばしば困らされる「小さな親切、大きなお世話」「小さな親切、大きな迷惑」「小さな親切、大きな危険」の類は、いずれも「どのような意味でも合理的配慮ではない」と言うことができます。

「全盲の人が電車のホームから落ちそうになっていたら、『落ちますよ』と声をかけて腕をつかむなり何なりして安全を確保する」

は、まあギリギリ「合理的配慮」のうちでしょう。それ以前の話、ちょっとしたことで生命に危険の及ぶ生活環境が大問題、ということでもありますが。

私がときどき困らされるのは、電動車椅子で横断歩道を渡り終えるときです。

車道と縁石の間に若干の段差があるとき、そのまま進むと縁石に引っ掛かり、運が悪いと前方転倒ということになります。これで骨折したり、運が悪いと亡くなったりする電動車椅子族、時々います。

私の電動車椅子は「簡易電動」と言われるタイプ、手動の車体に電動化モジュールをつけたもので、手動運転を行うこともできます。車輪がものすごーく重いので、従って手動運転も力技になってしまうんですけど、5cm以内の段差なら「前輪を持ち上げて手動運転して越える」が可能です。

ところがその場面で、「押しますよ」と言ってくる人がいたりするんです。「押しますよ」と言う前にもう押していたり。

すぐそばに左折車が来ているので早く歩道に上がろうとしているときに、背後の「押しますよ」への対応という新しいタスクが加わることの脅威感。車椅子生活を経験したことのない方に、どう伝われば伝わるだろうかと思いますが、これは非常に脅威なんです。もしも自力で越えられないと判断したら、最初から周囲の人に手助けを頼んでいます。

いきなり押された場合には、さらに危険が発生します。私は手動運転に切り替えた瞬間に、もうハンドリム(車椅子の手動運転をするため、車輪につけられた手回し用の輪)をつかんでいますが、指の態勢まで同時に整っていないことがあります。そういう時には、指先が車輪のスポークの中に入っていたりするわけです。その状態で後ろから押されたら、指が車輪に巻き込まれます。実際に過去、何回も痛い思いをしました。押した方々は、「ごめんね」と言いながら立ち去るだけでした。

障害者が「迷惑だ」と感じるタイプの「親切」「優しさ」「思いやり」は、どのような意味でも「合理的配慮」ではなく、むしろ形を変えた差別というべきです。

「まず日本社会は、障害者の言挙げに耳を傾けることから始める必要がある」

と私は思っています。

けっこう充実、内閣府のセミナー。でも障害者自身は?

内閣府は、昨日12月5日・本日12月6日と、東京・中野で「障害者週間 連続セミナー」を開催しているようです。

私は、昨日・本日と別件の用事があり行けませんが、なかなか充実した内容です。

障害を持つ子どもの育ち・学びを支え、まだまだ困難多い障害児の親を支え、成人してもやはり大変な障害者が実社会での就労その他の「大人の生活」を営めるための知識と知恵と具体的な対策の多数について、タイトルと講演者の名前を見ただけで「おおっ!」と感じる講演多数が並びます。

とはいえ、どちらかといえば支援者や周辺の人々寄り、「障害者本人は?」という気持ちも沸きます。

来年はぜひ、内閣府主導で「障害者の『差別された』に耳を傾ける」を実現させてほしいものです。

万が一にも健常者社会にとっての「いい子ちゃん」障害者だけを集めてモノ言わせるのではなく、健常者社会が見たくない障害者の姿、聞きたくない障害者の声にも、「互いに、ここを乗り越えなくちゃ」という動きを政府主導で作っていただけないものでしょうか?

健常者が望まないであろう姿を見せ声を上げるとき、障害者は「被害者意識」「被害妄想」「何様のつもりだ」「障害者のくせに」「障害者福祉も年金・生活保護などの所得保障も返上してから言え」という反応を覚悟する必要があります。

声を上げる障害者は、内心の恐怖と闘い、「いい子ちゃん」をしたり泣き寝入りしたりすることによって得られている(偽りといえども)日常の平穏を失ってもよいかどうか何度も自問し、万一そうなった場合の「自己責任、雉も鳴かずば撃たれまい」という嘲笑も覚悟した上で、「それでも」と声をあげているのかもしれません。

健常者社会の中で声を上げるとは、そういうことです。

やっても無駄かもしれませんが、やらなければ永久にこのまま、もっと悪くなるかもしれない。だから声をあげるのです。

私は自他ともに「(障害者)運動家」と認めていない人間ですし、「とても付き合えない」と感じるタイプの運動もままありますが、それでも「自分の代わりに声をあげてくれている」という感謝の気持ちが全く湧かない障害者運動はありません。今のところ、社会に対して何等かの異議申し立てをすることが出来ている障害者は、乙武洋匡さんを除いて、ほぼ、障害者運動家たちだけですので。

「寝た子を起こしてくれるな」という気持ちで、ひっそりと暮らしている障害者たちも含めて、すべての障害者が日本の全ての場所で、世間に怯えずに堂々と生きられ、仕返しやバックラッシュを恐れずに堂々とモノ言えるようにならなくては、と私は思っています。

収入の100%が生活保護である障害者や、ヘルパー派遣・特殊な車椅子・人工呼吸器などが利用できなければ10分も生きていけない障害者を含めて、すべての人が自らの状況を表明することができ、理解されることができ、差別されたときに「No」を言うことができ、必要な資源を何等かの形で得て生きて暮らすことができるのでなければ、「共生」はありえません。

なぜ「共生」「合理的配慮」をしなくてはならないのか?

2014年1月、日本は国連障害者権利条約を批准しました。

批准にあたって必要な国内法整備として、障害者基本法を改正し、障害者差別解消法を制定しました。

「共生」も「合理的配慮」もイヤだ、というのなら、国連障害者権利条約を批准しなければよかったのです。

国として批准した以上、国民の選んだ政権が批准した以上、やるべきことはやらなくてはなりません。

国連障害者権利条約の「Reasonable Accommodation」の訳が「合理的配慮」でよかったのかどうか、外務省の公式訳(前掲)がどのような経緯というかスッタモンダの末にこうなったのかについても、本が一冊できそうな物語があるのですけれども、今日はこのあたりにしておき、最後に

健常者と障害者に異なる扱いをすることは、障害者差別(ただし合理的配慮を除く)。

と、もう一度繰り返しておきます。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20151206-00052175/

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コメント(1)

  1. こんばんは。話題にしてくださり、ありがとうございます。
    この記事や考え方を沢山の人に伝達または読んで貰えたら嬉しい限りです。
    私は、50代ですが、今になって、また違う障害について学んでいます。

    少しでも、周りの人への気遣い、思いやりが、この記事にてパッとした気持ちに繋がって欲しいと願っています。

    返信

    ナオ

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