自ら好んで障害者になる人は、めったにいません。私もそうでした。
でも、なってしまったものは仕方ありません。
障害は、どのように活かすことが可能でしょうか?
車椅子に乗っているからこそ得られる情報
私は身体障害のため、外出のときは電動車椅子を利用しています。もう10年目(障害者手帳取得からは8年目)になります。
外に出る時に靴を履くのと同じような感覚です。
しかし、私にとっては日常の一部・自分の身体の一部のようなものであっても、外に出れば差別にも遭うし、公共交通機関利用も大変面倒くさいことになります。「だから外に出たくない」ということも結構あるのですが、10年目ともなると、たいていの差別や意地悪やトラブルは「想定内」です。
では、そういう人間くさい情報とか「障害者差別の地域性」といったもの、あるいは「バリアフリー設計の良し悪し」といった誰でも分かるようなもの以外に、得られる情報として何があるでしょうか?
振動情報
実は車椅子は、振動に対して非常に敏感な乗り物です。たとえば、夜8時ごろに京葉線で浦安あたりを通り過ぎると、「夢の国」で花火やってますよね? その花火の「ドーン、ドーン」という振動が、走っている電車の中でも、車椅子を通して伝わってくるんです。音と光で楽しめて身体で楽しめて3度おいしい。
路面情報
地方取材で私が重要視している情報、というより、車椅子で動いていれば自動的にエられる情報の一つに、路面の整備の情報があります。
目抜き通りくらいは綺麗にしているのか?
裏通りとの落差はどの程度か?
駅前やバスターミナルを一歩出れば分かるそんなことがらから、その自治体の姿勢や経済状況がかなり見えてきます。
そして、取材でだいたい裏付けられます。
精神疾患に活かしどころはあるか?
私は統合失調症を持っています。
発病時期は判然としませんが、子ども時代だったのではないかというのが精神科医の意見です。
「今から思えばあれは幻聴だったのでは」がたくさんあります。草原で遊んでいて音楽が聞こえてきたりとか。
精神疾患の活かしどころ、あるといえば結構あるような気がします。
微妙な変化に気づきやすい
「統合失調症という病気は、優秀な森の番人の持つ病気だったので淘汰されずに現在まで残ってきた」
という説があります。本当かどうかは分かりませんが、私もやたらめったら変化に気づきやすいんですよね。
自分の気づいているものが周囲の「健常者」には分からないものである、ということを理解したのは、40歳近くなるころでした。
情報を拾いやすい
変化に気づきやすいだけではなく、いろんなことに対して鋭敏なのだと思います。
私は、「鈍感力」は訓練してもつけられそうにありません。
「ぱっと見」で得られる情報の量が、周囲の「健常者」と全然違うということに気づいたのも、また40歳近くなるころでした。
幻聴のおかげで助かることもたくさん
私、状況が大雑把にはどうなっているかが、幻聴として聞こえることがあります。
「イヤなシグナルの音がしたらそこから離れる」という活かし方をすれば、これはこれで便利かと。
そこでガマンしていると、いずれはパニックを起こすことになるわけですが。
対人関係で特に疲れやすいが孤独に強い
人間関係で「変化に気づきやすい」「情報を拾いやすい」となると、気疲れしやすくなります。
同じ人間関係で抱える対人関係ストレスは、たぶん健常者の数十倍とかじゃないかなあと思います。
情報量が多い、判断しなきゃいけないことが多いというだけで、やっぱり疲れるわけです。
対人関係で疲れやすいので、自分の耐えられる範囲に人間関係を絞らざるを得ず、したがって孤独な時間を増やすことになるわけです。
たぶん若い時は、体力勝負で会社員生活をこなせていたんだろうと思います。
自分の疲労を自覚するのがヘタクソ
これは精神疾患を持つ人の多くに共通しますが、自分の疲労を自覚するのがヘタクソで、気づいたら既に遅いことが多いんですよね。
若い時は体力でなんとかカバーできてきたのでしょうけど、51歳ともなると、そうはいきません。
少しずつ、「斃れて後已む」をやらないようになってきたのは、ここ2年程度でしょうか。
トータルでは、やはり障害はハンディか
障害によって得られる情報の増加、それによる増収、障害によって失うもの(移動に時間がかかるとか、疲れやすいとか)を合計したとき、もしも
「同世代・ほぼ同じ条件の健常者より収入が上」
なのであれば、障害は目に見える形で活かされていると言えるでしょう。
金銭だけで測れるものではないと思いますが、金銭は一番わかりやすい指標です。
しかし現在のところ、私はベストエフォートで、収入面では健常者の60~70%のパフォーマンスを「上げられることもある」という感じです。ゼイタク体質ではないから、何とかなっているんでしょうね。
収入面での結果を見る限り、やはり障害がハンディキャップであることは認めざるを得ない、というのが正直なところです。
それを埋めるための障害者福祉なのですが、健常者比で結果が同等になってないということは、埋めきれていないということなのでしょう。
こんなところからも、
「障害者福祉は、日本では最もマシなはずの東京でも不足している」
という結果が見えてきたりするわけです。
自分の障害がハンディキャップとして働く場面を減らし、個性として活きる場面を増やすようにと心がけてきてはいますが、まだまだ、ですね。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20150126-00042541/