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長岡空襲 8月1日で69年 伝承は生き残った者の義務 新潟

米軍による長岡空襲(長岡市)から8月1日で丸69年を迎える。死者約1500人など大きな犠牲の様子は、生き残った市民のまぶたに今も焼き付いている。来年の終戦70周年を前に、体験者に空襲当時を振り返ってもらった。記憶をたどるまなざしからは、次世代へと語り継ぐ使命感がうかがえた。

◆市街地8割焼失

市などによると、長岡空襲は昭和20年8月1日午後10時半から翌日午前0時10分まで続いた。125機の米爆撃機B29によって16万3千発を超す焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の8割が焼け野原になり、1万1986戸が焼失した。

市は空襲の犠牲者を「殉難者」と呼び、この1年で1人を新たに認定し、7月25日現在、1485人となった。今年も8月1日、投下開始時刻に合わせて慰霊の花火「白菊」を上げる。

長岡空襲時の遺品などが展示されている長岡戦災資料館(同市城内町)には、平成15年の開館以来、年間2万人前後が訪れる。

運営ボランティアの山谷(やまや)恒雄さん(82)は空襲時13歳で、県立長岡工業学校(長岡工高の前身)の1年生だった。東弓町(当時)の自宅で期末試験の勉強中にB29の轟音(ごうおん)がし、外に出ると南方の宮内駅方面が真っ赤に燃えていた。

「ザーッと夕立のような音が聞こえた。全部自分に降りかかってくる感じで、恐怖に襲われ家に駆け戻った」と山谷さん。焼夷弾の音だった。きょうだい4人で近くの防空壕(ごう)へ避難したが、30分もたたずに煙が漂い、防空壕を出て家の向かい側に移動した。午後11時半すぎ、家に焼夷弾が直撃、燃えるのを呆然(ぼうぜん)と見つめた。

◆伝え方模索

山谷さんや長岡戦災資料館の初代館長、古田島吉輝(こだじま・よしき)さん(78)らは現在、市内外の小中学生や教職員らに体験談を聞かせている。25日も平和教育研修で資料館を訪れた県教職員組合の各支部書記長らに語った。受講した8人は30、40代で、数年後には再び教育現場に戻る。山谷さんは「空襲の悲惨さや平和の大切さを語り継ぐのが使命」として空襲の詳細を丁寧に伝えていた。

古田島さんは9歳だった自身の体験談以外にも、16歳の少年が家族6人の遺体を荼毘(だび)に付した話をした。「話す相手が例えば小学6年生だったら、どの教材を取り上げ、子供たちに印象を残すのは何かと今も模索している」という。

長岡空襲殉難者遺族会会長の新井淳夫さん(80)は千手国民学校6年生だった。郵便局長をしていた父、乕男(とらお)さん=当時(55)=と姉の羊子(ようこ)さん=同(13)=を空襲で亡くし、生き残った母と一緒に2人の遺体を運んだ。

「『淳夫は足を持て』といわれた。父ちゃんや羊ちゃんの遺体を持つことで重さが分かる。そうすることで今までの生活はないと体感させたかったのかな」

新井さんは父と同じ郵便局長を68歳まで務めた。以前は空襲について話してほしいと依頼されても「思い出すのもつらい」と断っていた。だが、60歳になり、「生き残った者の義務だ」と悟ったという。

資料館では殉難者のうち313人(25日現在)の遺影が展示されている。空襲で焼失した建物を赤色で示すなど色分けした「住宅焼失地図展」も開催している。両展とも8月31日まで。問い合わせは(電)0258・36・3269。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140731-00000120-san-l15

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