がん患者と心の交流
ご主人の声は、思いのほか明るかった。奥さんの遺品を整理していたら、パスポートが見つかったという。夫婦で外国に行くことはなかった。本当は、2人で外国に行きたかったのではないかと思い、奥さんの写真を持って、インドのガンジス川を旅してきたという。
女性は、昨年3月に大量の不正出血があり、大学病院で子宮体がんと診断された。肝臓、骨、腹膜転移があった。「ここは治療するところです」と言われた。寒空の下に放り出されたような気持ちになった。家族で泣いた。患者が「鎌田先生のところで診てもらいたい」と言ったという。何のつてもなく、電話をかけた。
患者の転院の窓口となる病診連携室担当の看護師長に電話がつながった。「いらっしゃるなら、一日でも早く」と看護師長は答えた。ぼくは病院を退職後、この病診連携室に居候している。日本中から電話がかかってくるが、この看護師長の対応はあたたかい。
産婦人科の医師と化学療法の専門医が、ダブルで主治医になった。しかし、体中に転移していることがわかった。本人が無理なことをしたくないと決断。今度は産婦人科の医師と緩和ケアの医師が主治医になった。緩和ケア病棟に移ってきた。
下肢が浮腫を起こし、胸部までその浮腫が及んでいる。足の深部静脈血栓症も起こしていた。重くて、痛い。「がんよりも、むくんだ足のほうが辛つらい」と彼女は言った。この一言が新たな展開を生んだ。
緩和ケア病棟は痛みをとるところである。痛みには身体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み、スピリチュアル(霊的)な痛みの4種の痛みがあるといわれている。浮腫をとってあげれば、精神的な苦痛を少し緩和してあげられるかもしれないと思った。
東京の後藤学園付属リンパ浮腫研究所所長の佐藤佳代子先生に連絡をとった。リンパドレナージというマッサージで、浮腫を治す日本の第一人者。特別に諏訪中央病院に施術に来てくれることになった。患者は喜んだ。心が再び元気になった。
女性は家族に内緒でピアノを習っていた。娘が外国から帰ってきた。病棟のピアノを弾いて、娘を驚かせた。歩くこともやっとの患者さんがピアノを弾いたのである。
リンパマッサージの治療を受けた夜、「もう足首が細くなってきたのよ」と女性はうれしそうに話した。「鎌田先生に足を見られちゃった」と、娘と2人はしゃいだという。リンパドレナージは、彼女がそのとき抱えているいちばんの苦痛を緩和してくれた。このことがいい回転を生んだ。食欲がなくても諏訪中央病院の緩和ケア病棟の自慢のメニュー、カキ氷をいつもうれしそうに食べた。ラウンジで絵を描いたり、病院の庭づくりに取り組むグリーンボランティアとガーデニングの話をしたり楽しそうに過ごした。
家族や看護師たちは、佐藤先生のマッサージの後を継いだ。これが良かった。マッサージを通して、患者さんと家族は、言葉を超えたコミュニケーションをした。女性の苦痛をやわらげるために行われたマッサージは、同時に、大切な人を失う家族の悲嘆の緩和をしているようにも思えた。
たくさんの専門家で彼女を支えた。こんなチーム医療がもっと広がるといいと思っている。助かる率も上がるはず。助からない時でも、もっと、救われたり、納得できたり、癒やされたりする人が多くなると思う。あたたかな医療が日本中に広がることを願っている。(かまた・みのる=長野・諏訪中央病院名誉院長)
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