2011年3月11日の東日本大震災で発生した、福島の原子力発電所事故。
事故後、4カ月経った現在も、いまだに終息の見通しが立っておらず、放射性物質が長期間にわたり大気や海、土壌に放出され続けている。未曽有の事故、未経験の現実に、改めて「食の安全性」が問われる時代になったと感じる人も少なくないと聞く。
そんな今だからこそ、高まっているのが「安全な野菜を自分で作りたい」という家庭菜園への関心だ。
しかし多くのビジネスパーソンが暮らすマンションなどの集合住宅生活では、プランターにせよなんにせよ、なかなか一歩を踏み出す気持ちになれない。今年は節電の視点からグリーンカーテンを作るためにでゴーヤなどの植物を育てている人が増えているとは聞く。ただ、まだ始めていない人にとっては「もっと気軽に挑戦できるインドア&ベランダ菜園」がないものか、安全や安心を求めながらも、楽して得したい気持ちは誰にでもあるだろう。
では「気軽にできる家庭菜園」とはなにか。ここでは原発事故、そしてエコ活動や自然回帰への意識が高まりつつある現代日本の背景とも併せて、“土を耕し、実を育てる”家庭菜園の最新事情を、「オーガニック家庭菜園」のワークショップを開くジョン・ムーア氏の話から、ひも解いていく。
ワークショップは常に超満員
ジョン・ムーア氏はジョン・ムーア アソシエイツ(=東京都渋谷区)代表で、社会起業家だ。オーガニック栽培を通じて人間の生き方を問い直すワークショップを開催するなどしている。彼が開催するワークショップには、下は小学生から上は70代の女性までと幅広い年代の人々が集う。もちろん、最近では男性受講者も増加中。男性の受講者で多いのは、IT業界で働くビジネスパーソンだそうだ。「野菜作りにも一種のクリエーティビティを刺激されるのではないか」とジョン氏は語る。
「A4サイズのスペースがあれば、自分で食べる野菜を自分で作ることができる」という実践的な栽培方法、食への意識の向上、さらに自然と向きあうことで自分自身を見つめ直す――そんなコンセプトを掲げるのが、ジョン氏のワークショップだ。
これまでに「100%オーガニックフードを自分で育てる」というジョン氏の講座を受講した人数は300人を優に超える。この講座は現在terranovaというブランドを通して開催している。
ちなみにジョン氏、アイルランド出身で、英国の大学を卒業後に教職を経て、日本の電通に入社。1990年代後半にパタゴニア日本支社長に就任し、同社の経営改革に大きく貢献した。いわば、生粋のビジネスパーソンだ。
しかし彼のルーツは、自然豊かなアイルランドの大地での経験にある。ジョン氏の祖母は庭に植物を植え、栽培・収穫する生活をしていた。「生きるために、自分で食べたいものは自分でどんどん作る。それが彼女の信条であり、私がワークショップで伝えたいメッセージでもある」(ジョン氏)。
プラスチックやブリキのケースで土をつくり種をまく
では実際に、室内ではどうやって野菜を栽培するのだろうか。
今回取材のためにお邪魔したジョン氏のスタジオには、A4サイズ程度の容器が幾つも並べられ、中には野菜やハーブが生い茂っていた。容器はどれもプラスチックのケースやブリキ製のもの。これならば身の回りにあるもので対応できそうだ。
野菜栽培と聞くと、まずはホームセンターで専用の容器を買いそろえなくては…などと準備万端でなければ始められないイメージもあるかもしれない。対してこれは、正直拍子抜けしてしまうほどの手軽さだ。
「でも、種の植え方はとても難しい(笑)」と言いながらジョン氏は種を土に豪快に放り投げる。これは、氏ならではのリップサービス。種蒔きにも特別な技術など必要ない。種類も、何をいつ植えてもOKだという。
では、何にこだわるのか。それが「土づくり」だ。ジョン氏のスタジオの容器の中の土は、覗いてみると表面に枯葉や小さな石が置かれている。その小さなスペースから漂う水分を含んだ濃厚な香りは、森の芳醇(ほうじゅん)な土の匂いだ。
「この土の中には、手のひらサイズで約1億もの微生物がいる。彼らは土から栄養を吸収し、糞を土に還すことで、土壌が栄養のあるものに変わる。その土壌の栄養を吸収することで植物が育つ」(ジョン氏)
肥料は米、海苔、ドリップしたコーヒーかす!?
化学肥料たっぷりの土は、微生物の生育を妨げる。虫のいない土は一見綺麗だが、その実栄養価は恐ろしく低い。とはいえ家庭栽培で、買ってきた化学肥料以外に何を与えればいいのか、一瞬途方にくれるかもしれない。しかし実は、土に与える肥料は何でも良い。
「お米。海苔。ドリップしたコーヒーのカスも、土に戻る有効な肥料」(ジョン氏)。家庭から出たゴミも活用する。これがオーガニック栽培への第一歩だ。
豊かな土壌ができ上がれば、あとは植物が自生してくれる。水も、霧吹きで軽く湿らせるだけで充分。枯れ葉や石で土の表面をカバーすれば、必要な量の水分を蓄えることができる。光も室内に注ぎこむ量があればOK。日頃忙しいビジネスパーソンにとっては、実にトライしやすい栽培方法である。自然はそこに存在するもの。人間が余計な手を加えないことが一番だとジョン氏は言う。
A4サイズでも“自分の土地”へのプロデュース能力が問われる
しかしそこで大切なのが「何を植えるのか」という、“自分の土地”へのプロデュース能力。A4サイズとはいえ、作りたいもののテーマを決め、そこで何種類かの植物を一緒に植えるのがキモだという。
「例えばスイートバジルとトマトをひとつのプランターに植える。これでピッツアの材料が出来上がりだ。私なら男性に薦めるのは“おつまみのプランター”。ビールを飲みながら育てたおつまみを収穫して、さらにお客さんにも振る舞えたら最高。酒を種から作ることだって可能になる」(ジョン氏)。
普通に考えると、一つのプランターでは一つの植物を育てたほうが生育しやすそうではあるが、実は植物はそれぞれ繁殖する微生物が異なる。異なる植物を一つのプランターで育てることにより、それぞれの持つ微生物が互いの微生物に足りない部分を補い合える。何種類かの植物を一緒に植えることで相乗効果が生まれるというわけだ。
ただし、寄せ植える種には相性がある。例えばハーブのローズマリー。根っこに繁殖する微生物は大変活発で、スイートバジルなど他のハーブ類を食べ荒らしてしまうのだとジョン氏は言う。そうした知識がないと、知らずに相性の悪い植物を一緒に植えて、実がならずに終わってしまう可能性もある。しかし失敗を通して植物同士の相性に気づくのも、家庭菜園の醍醐味だ。
「プランターに何を植えるのかを考える時間は、とても有意義。パートナーや世間の意見に左右されず、自分の理想を考えてみるといい。そうして作り出す植物と自分の関係は、誰からもコミットされない唯一無二のものとなる。自分の人生の象徴そのものに成りうる。当然、丁寧にケアする気持ちも起こるし、栽培に関わるうちに深いリラックスが得られるようになる」(ジョン氏)。
概念的に聞こえるかもしれないが、“土いじり“が持つ本質を示すものでもある。また、難しそうに聞こえる“相性”も、実は食材として一緒に使うもの同士は比較的一緒に育てやすい(ピザの上に一緒に載っていることの多いスイートバジルとトマトなど)というのも、ジョン氏の教授するところ。
またジョン氏はオーガニック家庭菜園は「今、日本人男性にこそトライしてもらいたい」と語る。
「世界中どこにでも見受けられることだが、特に現在、日本の男性は大きなストレスにさらされていると感じる。社会からの圧力や、成長過程で受けてきた親からの期待や支配など――私はこれらを『心の刑務所』と名付けているが――にとらわれて自由を失っている人が多い。仕事に不安を抱える人。自分が住んでいる場所やパートナーに愛情を持てない人。そんな男性も増えている。
そこに今回の原発事故による放射性物質汚染問題という、新たなストレスも加わった。この危機的状況をどうするのか。
その一つとして、まずは自分たち自身の手で、酒やおつまみを作ってみることを提案したい。植物を育てることは、一人ひとりの心のかせを取り除き、新しい社会意識を育むチャンスになる」
IT業界の男性ビジネスパーソンにも人気
なぜジョン氏のワークショップが人気なのか、ここまで話を聞いてわかる気がした。まず意外にも初期投資費用が少なく済みそうであること。プランターはわざわざ買わなくてもいいし、高級な肥料も使っていない。加えて、ビジネスパーソンとしては、自分を見つめ直す時間が持てる、達成感があるということ。そして“自分の手で育てた=何を養分としているのか、どうやって育ったのか”が分かっているという安心感が得られるということ。さらに植物を育てることで涼感を得ることもできるだろうし、仕事以外の仲間を得ることができる可能性も高まる。こうした複合要因がある限り、今後もますます家庭菜園に挑戦する人は増えるのではないかと考えられる。
さらに話はただの家庭菜園にとどまらない。
実はジョン・ムーア アソシエイツは、今年の5月にオープンした賃貸式の農園・元麻布農園(スローライフ・東京都港区)でオーガニック農業体験講座を開催。都市部以外の地域にも活動を広げており、新潟県長岡市川口荒谷では、地元の人と提携し、山の暮らしを体験するツアーを企画し好評をだったそうだ。また今年の10月には、高知県の土佐山地域でTOSAYAMA ACADEMY(現在、プロジェクトメンバー募集中)を開校予定。今後は県庁や地方自治体も巻き込んで、オーガニック哲学をベースにして持続可能なビジネスを展開していきたいというのが、ジョン氏の社会起業家としての展望でもある。また、ワークショップ受講者へのビジネスアドバイスも活発に行っている。
もちろん他のビジネスと同じく、プロジェクトの成否は受講者次第になるが、「(受講生たちとは)5年後、10年後の新しいビジネスモデルを一緒に考えていくことができれば」と話すとおり、ジョン氏はオーガニック栽培のワークショップをビジネスに発展させる考えを持っている。
長引く不況や今回の震災による一連の不安。環境への危機意識や安全回帰を求める気持ちが一層高まる中、自然や食にまつわる新たなビジネスフィールドを求める人々の数は増えることだろう。そこに登場した家庭菜園。ベランダや室内で土と触れ合う時間がこれからの日本を変える……などと書くと大げさだが、放射性物質対策はもちろん、自分自身とビジネスにも大きな未来を秘めた野菜作りは、今後の「オーガニック」トレンドを作っていくかもしれない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110715-00000004-trendy-ind