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長岡における戊辰戦争の激戦のひとつ『八町沖の戦い』
一度、西軍に奪われた長岡城を奪還した、長岡藩の奇襲作戦です。
当時、長岡城の北東には『八町沖』と呼ばれる広大な沼地が広がっていました。
ここは底なし沼と言われる難所もあり、人の横断は甚だ困難な場所でした。
河井継之助率いる少数の長岡藩士は、西軍の目を盗んで深夜、『八町沖』を渡渉。
出発したのは旧暦7月24日(新暦9月10日)の午後10時頃、
ところが、この夜は下弦の月でした。
通常の下弦の月は夜半頃に昇りますが、この時期の下弦の月は、天球の最も北を通り、月の出が早くなります。
しかも、月が姿を現す位置は、東山の稜線の北の外れになり、山が最も低く見える位置になります。
計算上、月が山の稜線から出るのは午後11時20分過ぎになります。
つまり、『八町沖』の横断は月夜の中で決行されたことになります。
『偶ま月東山に上り、原野白晝の如し。一行其發覺を恐れ、各々畦畔に伏して月の隱るるを待つ』
(河井継之助傳・象山社)
闇の中で、進軍の目印にもなる月の光は、本来なら決して邪魔ではないはずですが、戊辰戦争の最中では、敵に発見されればみすみす狙い撃ちにされる危険と背中合わせだったのでしょうか。
右も左もわからない沼地。
先導役の鬼頭熊次郎の尽力で、渡渉ための整備が行われはしましたが、冷たい沼地を進むことが大変なことだったことは疑いの余地はありません。
困難を極めたと言われる『八町沖』の渡渉。
その凄さのほんの一端を知るため、私は深夜の『八町沖』に行ってみました。
その日は月は夜半前に沈んで、文字通りの闇夜。
『八町沖』の中深く入ると、辺りは真っ暗。
人家はもちろん、街灯もなく、ひたすら広大な水田が広がっています。
長岡市街地の上空が明るいので街の方向がわかるものの、昔は本当に真っ暗だったはずです。
かろうじて東山の稜線がわかるものの、この真っ暗闇の沼地を、目的地も見えないままに渡渉するの不可能にさえ思います。
ここからは私の憶測ですが、東山の端の稜線から姿を現す下弦の月は、長岡藩士にとって、目印にもなったのではないでしょうか?
月を左側に見ながら進めば、いたずらに迷うことなく、必ず対岸に渡れるはずだからです。
実は9月の下弦の月の位置は、オリオン座の北になります。
これは6月の太陽の位置に極めて近いのです。
6月は梅雨入りとはいえ、夏至前は雨が少なく、晴れることが多いものです。
今の時期に、早朝に八町沖を散策してみると、実に興味深いのではないでしょうか?
八町沖の暗闇を体験し、太陽を月に見立てて八町沖を歩くと、当時の長岡藩士の必死の思いの一端を知ることが出来るかもしれません。