1477人の死者を出した1945年8月1日夜の長岡空襲から64年。長岡市の長岡戦災資料館が7月、犠牲者216人の遺影を公開した。3年がかりで集めたものだが、当初は「慰霊堂になってしまう」と心配する声も。それでも遺影にこだわった背景には、「犠牲者の写真でなければ、今の子どもたちにあの悲惨さは伝わらない」という古田島吉輝(こだじまよしき)館長(73)の思いがあった。(三沢敦)
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●若い世代くぎ付け
7月1日、3階展示室で始まった「長岡空襲殉難(じゅんなん)者遺影展」。216人のモノクロの遺影が旧学校区ごとに並ぶ。
幼い子どもが少なくない。夫婦と子ども5人全員が犠牲になった斎藤己之松さん一家の写真が目を引く。信濃川に近い文治町1丁目の防空壕で爆撃に遭った。が、そんな悲劇が待っていると予想できるはずもなかった。遺影の子どもたちはみんな穏やかに笑っている。
りりしい表情で写真に納まる林公一君は、林呉服店の長男。当時、表町国民学校2年だった。将来は店を継いだであろうに、両親と弟妹4人とともに命を落とした。
会場には、当時の住宅地図もパネル展示されている。大半は焼けたことを表す赤鉛筆で塗りつぶされていた。
「空襲は1477人の命を奪い、市街地の80%が焼き尽くされた。惨状は筆舌に尽くしがたい」。空襲体験者で、運営ボランティアの山谷恒雄さん(77)が説明した。
●伝えるために館長こだわり
市が戦災資料館を開設したのは03年7月。三十数人のボランティアを中心に空襲を記録、保存し、継承する活動が始まった。
とりわけ、未来を担う若い世代に伝えていくのが使命だ。が、開館2年目に館長に就いた古田島さんは、こんな思いが消えなかったという。
「みんなまじめに話を聞いてくれるけれど、本当に心に響いているのだろうか」
空襲当時、古田島さんは国民学校3年。見附市にある母の実家に疎開していて助かったが、新築して5年の自宅が灰になった。疎開先で見た長岡の町が真っ赤に燃え上がる光景は、生涯忘れられない。
なのに、資料館を訪れる小中学生の中には、B29爆撃機の模型にばかり心を奪われている子もいる。
定年まで小学校教師として子どもたちと接してきたのに、思いが必ずしも伝わらないもどかしさを感じた。
敗戦から60年以上たった今、学校でも家庭でも戦争を語れる人がいない。子どもにリアリティーが乏しいのは無理もないことかもしれない。
館長就任後、見学を要望する学校に条件を付けた。
見学には1時間半ほどの時間を割いてもらい、後半の45分間は「語り部」の話を必ず聞く。肉親を失った空襲体験者の話にじっくり耳を傾けてもらいたかったからだ。
モノクロの空襲写真だけでは、子どもたちの想像力は膨らまない。そう考えて06年度から空襲体験画の展示も始めた。美術協会に頼んだり、一般から募集したりして88点が集まった。真っ赤に燃えさかる町並みや黒こげの遺体……。作者の証言をまとめたDVDを学校に貸し出した。
そして、07年から始めた取り組みが「遺影」だった。
●「命の大切さ」礼状に切々と
チラシを作って市民に提供を呼びかけた。1年目で86人分、2年目で計156人分。集まった分だけで毎年、遺影展を開いた。
その遺影に、戦争を知らない子どもたちがくぎ付けになった。
ほほ笑む一人ひとりの写真。自分と同じ子どもたちが、罪もないのに短い人生を閉じてしまった。いろんな夢や希望があったはずだ。野球選手になりたい。ケーキ屋さんになりたい――。空襲がそれを奪った。
子どもたちに、古田島さんが「戦争をしてはいけない」とか「命は大切に」などと語りかけることはない。自らつかんでほしいと思う。ただ、展示室に入ったら、黙とうだけはお願いする。自分たちが今あるのは、この人たちのおかげなんだ。そんな気持ちで遺影に接してほしいからだ。
先日、見学に来た小学6年生から尋ねられた。「館長さんは子どものころ、どんな希望を持っていたんですか」
一瞬、言葉に詰まった。「国のために立派な兵隊になることでした」。
遺影を見た子どもたちから資料館に礼状が届く。そこには、「命の大切さ」が切々と書かれていた。
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