平成20年6月議会一般質問 原稿「長岡市の防災体制について」市民クラブの加藤なおとです。通告に従い、長岡市の防災体制について質問を致します。冒頭、14日に発生しました「岩手・宮城内陸地震」で被災されました皆様に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈り致します。 ミャンマーのサイクロン被害、中国の四川大地震と、国の内外で大災害が頻発し、防災への取り組みが一層求められております。当長岡市では、平成16年に7・13水害・10・23中越大震災と、立て続けに大災害に見舞われ、復興に努めて参りましたが4年の歳月をかけ、おおむね落ち着きを取り戻した所といった状況であります。さて、今日にも梅雨入りかと思われますが、今回は、特に水害対応について7・13水害などの体験をふまえて質問致します。 私の住む、長岡市北東部・猿橋川流域は過去毎年のように川があふれ、時には大きな被害を出してきました。そのため、自主防災会などという制度ができる以前から地域住民による防災活動が当然のように行われておりました。雨が降り続きますと、町内会、農家組合は河川の警戒を自主的に行います。浦瀬町では平成8年に「防災対策要領」を定め、警戒区域や炊き出しの役割分担まで明文化してあります。また、毎年梅雨入り前、町内会、農家組合、婦人部、それと消防団幹部が顔あわせをし、水害時の手順を確認しており、今年は5月28日に行われました。乙吉・宮路・麻生田地区も6月21日に、桂・亀崎地区は22日に予定されています。さて7・13水害の時も私が、きらきらと光って落ちてくる大粒で激しい雨に気づき、川を見に行ったときすでに農家組合役員が警戒巡視をしていました。水害では、河川の溢水や堤防の異常を初期段階で見つけ、速やかに対処することがその後の被害を軽減する決め手になります。堤防の決壊にまで至ると、川から流れ出る水の勢いが落ちるのを待ってそこを仮締めするまで機械排水もできず、現状復帰に時間が必要になるからです。 そこでお伺いします。このように、自然災害が多い地域は当然のように自主防災活動を元々していたし、何の抵抗もなく町内会や、農家組合が自主防災会となっている場合が多いと思いますが、市街地などでは組織率が低いのではないでしょうか?本市の組織率とその向上のための取り組みについてお伺いします。 また、こうした自主的な水害警戒活動に際し、事故を心配される町内会長さんもおられるわけですが、その補償体制が整備されているのかお聞きします。 長岡市地域防災計画では市民の役割として水害などの前兆現象に注意を払い、確認した場合は遅滞なく、県・市・消防署・警察署の4つの機関に通報するよう明記されていますが、通報窓口は市に一本化できるのではないでしょうか?お考えをお聞かせ願います。 こうして、消防団に出動要請がかかります。消防団幹部は、独自に見回りをしていますが、団員に出動を下令するのは、地元の警戒活動による情報と併せて判断します。水害は、広域的にしかも同時に発生することが多いため、地元住民からの情報提供が欠かせません。現場では消防団幹部が指揮を執り、必要な水防作業を行います。地元住民の方も消防団の協力要請によりその指揮下で作業をしてもらいますが、消防団の指揮下に入ってもらうのは、負傷をした際などの補償が消防団員と同様に受けられるからですが、水防工法などは地元の経験豊富な町内役員さんなどからの助言を受ける場合も多いのです。必要資材については水防倉庫からと、近くの建設業者などからの調達や、土嚢運びにリースのクローラダンプを使ったこともありました。これらの必要資機材の調達コストは当然市で負担することになるはずですが、ご確認をお願いします。水防作業は一般的に長時間を要し、被害は広範囲にわたる場合が多く、炊き出しが必要な場合も地元の方にお願いするのが一般的です。この場合の経費についても行政支援はどういう形で行われているのか、これも確認の意味でお答え願います。平成16年の7・13水害では、避難勧告が出され、避難所が開設されましたが、この勧告に従わなかった一部の人を救出に、深夜停電で真っ暗な地域へ、しかも川があふれ流木や岩などで足下もおぼつかない中、消防職員が救出に行くという事態になりました。土砂崩れの危険をおかしての決死の救出となったわけですが、このような事態に至ったのは、災害対策基本法による、避難指示・勧告に何ら法的拘束力がないことも理由だと思われます。この辺を市当局はどのようにお考えなのでしょうか?水害は水が引いたあとも大変です。多量の土砂が住宅の中、庭、道路、側溝など所かまわず一面におかれていきます。個人住宅は多くのボランティアの方に助けられ、また、機械力の及ばない狭い道や側溝の中など、人海戦術に頼らざるを得ません。梅雨時期ですと次の降雨に備えて一刻も早く排除したいものです。地域の方は自宅の後かたづけで精一杯ということもあり、消防団でなんとかならないか・・・と懇願され、この復旧作業が、消防団活動に当たるかどうかで紛糾した場面もあったものの、結局18・19の二日間にわたり、のべ400人の消防団員の出動をいただき、地元の要望に全て応えることができました。私はこのとき北部方面隊長でしたが、富曽亀・新組・山本と、管轄エリアのほとんどが被災しており、連日の出動で団員の疲労もピークで、職場もそう休むわけにもいかず、このとき、中央・南部・西部・川西各方面隊からそれぞれ約100名余りの団員に駆けつけてきていただいたことを、いまでも忘れることができません。本当に感謝しております。 消防団は今年4月に一市一団となり、14方面隊約4000人の団員を擁する新消防団に生まれ変わりました。水害・地震と大いに活躍し、「自分たちの地域は自分たちで守る」の意志を具現し、長い歴史を持つこの組織の存在意義は大きいと思います。またその団員は、消防団活動を通じて地域の絆を深め、将来はその地域の重要な担い手として期待される存在でもあります。条例定数4223人にたいし94%程度の充足率をなんとか維持しているものの団員の募集難は深刻な状況にあります。市当局の消防団についての認識と団員確保対策をお伺いします。最後に災害時の自衛隊との協力体制についてお伺いします。一般的に災害は、消防・警察を含む自治体や、海上保安庁が対応することとなります。しかし十分な対応が困難な場合、緊急性・公共性・非代替性を総合的に判断して自衛隊の災害派遣の可否が決定されるものですが、中越地震での山古志全村避難の例や人命救助の観点からも迅速な判断が求められます。私は、昭和58年に発生した日本海中部地震のとき、青森県の海上自衛隊大湊航空隊に勤務していました。基地も大きな揺れに襲われ、テレビでは、津波被害の様子が伝えられていました。中でも痛ましいのは海岸に遠足にきていた小学生が13名も津波にさらわれ行方不明になっていたことです。航空隊司令の命により基地の10機のヘリコプターを全部出しローターを回して出動命令を待っていましたが、最後まで派遣命令は来ませんでした。結局津波で100名の命が失われる大災害となってしまいました。 出動しても津波に飲み込まれた人を救助できたかどうかはわかりませんが、私はこのときの言いようもない悔しさをいまでも鮮明に覚えています。 自衛隊の災害派遣の要請権者ははその当時は知事、空港事務所長、海上保安庁長官、海上保安本部長の4機関しかありませんでしたが、平成7年の災害対策基本法改正により市長も災害派遣の要請が行えるよう改正されたと伺っております。そこで災害時における自衛隊への出動要請基準についてお聞きします。また、いざというときの連携を確保するためにも平常時においての意志疎通が大切だと思いますが、どのように当市は自衛隊との連携をはかっているのかお聞きします。 多くの災害を経験した私達は、その対応は文字通り「協働」による総力戦であることを知っています。そこには、国・県・市の職員・消防職員・警察官・地元住民・消防団、時としてボランティアの皆さんや自衛隊員が協力して事に当たらねばなりません。住民に最も近い地方自治体の市当局がその要として連係プレーがスムーズにゆくように日頃から準備を怠りなく重ねていってくださることをお願いしまして、私の質問を終わります。